〔二十二〕 七月二十五日の夜は、松山椿神社の近くのS君のところへ泊り、翌日は土佐中村市津倉淵の今大師へと車を進めたのである。前にも記した様に、この今大師ではずいぶんとお世話になり、帆陰(ほかげ)のおばあさんを初めとして思い出の深いところである。 さて、この昭和四十九年七月二十六日は、旧暦で六月八日。ここの今大師の初代喜伝坊さんの御縁日(命日)が、旧暦の九日なのでその前後合せて三日間は、お参りの人々を迎えての通夜ごもりなどでにぎわうのである。 ○○庵のことは、返事を三十日にいただくことになっているので、その間別段になすべきこともなく、なつかしの当所へと参ったのである。その後新居浜の現在地に落ち着いてからも数度、この今大師の縁日にお参りをしてお世話になったものである。 二十八日は今大師で会った、Y氏宅に善根宿をいただき、翌二十九日は高知市に向かい、宇佐、井の尻の門田(角田?)荘に立ち寄り、辺路中に善根宿をいただいたお礼をして、それから桂浜にゆく。 住所不定の身とはいいながら、辺路のときとはまた違って、束縛がないのが、フトコロ具合と同様身も軽く、桂浜では海水浴に興じたものだ。また当日は、鏡川まつりで高知市内はにぎやかで、露店をのぞいてみたりして、その夜は三十三号線沿いの越知町で車中泊り。 三十日。面河渓谷や石鎚スカイラインに遊び、土小屋まで行く。この時には時間的に余裕がなく、生憎と石鎚山に登ることができなかった。 それから約束のことなれば、K寺へと参る。しかし○○庵のことは良い話にはならぬ由。止むごとなし。また生木の地蔵さんにゆくと、今度は新居浜の庵のことなどを話されて、中萩(新居浜市)のM寺さんに紹介される。これがまたとない良い縁を招き、現在地に居を定める足掛かりとなったのである。この日は生木さんに泊めていただく。 三十一日。松山のS君の処に行く。丁度近くの椿神社の夏越の祭でにぎわっていたので、二人でお宮参りに出かける。またこの日、昨日正善寺さんで会ったM寺さんより電話をいただく。M寺の近くにある泉大師の件は不可なれど、ほかに心当たりの堂もあるので、新居浜の方へ来られたし、との由。 その夜はS君の処に泊まり、八月一日、いよいよ新居浜へと車を進める。途中小松町の国道沿いの理髪店で坊主頭(三枚刈り)にする。 M寺にゆくと、R庵とB堂二ヶ所を兼務しておられる人の話があり、出来ればその一方を小生にどうかとのことで、R寺にゆく。R寺にゆくと、そこの住職さんがR庵のT氏を早速によばれて、四人で話をしたのであるが、はっきりしたことは村の世話役の人に話をしてみなければわからぬとのこと。 〔二十三〕 嘘から出た誠も無ければ、誠から出た嘘も無い。 悉皆、縁により出たるもの也。 結局のところR庵には入れぬことになるのだが、その経過は小生の日誌によれば、八月十日R庵のT氏がB堂への移転準備をしておられる由。T氏の師僧がB堂におられたので、そのお堂の方の守をしたいとの意向で、R庵の方を小生にゆずろうとの話になっており、十八日には小生がR庵に入る段取りになっていたのである。 しかしながら十八日(日よう)午前十時頃、R寺の住職さんがM寺に来られ、R庵のT氏に会って直接に話を進めて欲しいとのことなれば、やむなく午後四時頃にR庵にゆく。M寺さんと小生とT氏三人で話し合いをして、結局三十一日にR庵に入ることに決する。 八月一日よりのM寺での生活は、あれやこれやと手伝いごともあったのだが、案外と呑気な日々であった。初め三日は寺の外にも出ず、おとなしく読書や寺の新聞づくりの手伝いで日を過ごしたのであるが、四日目には車で外に出ている。ずっと西の立花町辺まで足をのばし、ブラリブラリと空堂なども下見していたもので、阿弥陀寺(立花町)という処で、小柄なおじいさんと話をしたのを記憶している。 昨年(昭和五十六年)この辺りに参った時には、もうこのおじいさんは住んでおられなかったようにおもう。 五日には大頭(妙口)のHさん宅にまいっている。六日にはお寺の境内の草取りや掃除などで日を過ごして、翌朝早く五時過ぎに土佐の今大師へと向かう。 中途車中でいねむりなどもして、中村市津倉淵の今大師には十二時半に到着。その日と翌八日の二日間はここで過ごす。 そこで行者さんらがお参りの人々に対し、色んなこと――加持祈祷などをしておられるのだが、水虫がひふが裂けて血が出ているようなのに、墨で呪文かしらを書いてマジナイをしたり、また高血圧の人には、水あめ状のものを箸の先につけて、九字をきってマジナイ事をしておられた。 九日金よう日。今大師をあとにして、お四国巡拝中には参ることができなかった、金山出石寺へ参る。丁度お観音さんの縁日ということで、お参りの人も多く、通夜ごもりの人も百人近くおられ、小生もみんなといしょにお通夜することになる。 夕方護摩堂でかっぷくのいいお坊さんの話があり、そのどっしりとした風格と話に感銘したものである。 そのお坊さんとはその後R寺で一度お会いし、また一昨年にはその方の葬儀にも参列するご縁をいただくことになったのだが、その当時にはおもいもよらぬことであった。 お寺の食堂でご一緒した老人二人と色々に話がはずみ、翌日は下の町までその老人二人をのせており、八幡浜から大洲方面には出ずに、保内町の平家谷経由で伊予灘に出る。 海岸沿に長浜町沖浦に出て、そこでは藤原期の作とされる、国宝の十一面観音さまを拝観させていただく。臨済宗妙心寺派の瑞龍寺という寺であった。それからやはり海岸沿に松山に出て、S君の処へ立寄り、一風呂あびてM寺へと帰る。 前途のごとく、この日にはR庵のT氏がB堂への移転準備をしておられたのである。 十三日の夕方、お寺の門前で松葉をたかれる。お盆の迎え火である。M寺さんの弟さんや妹さん夫婦なども子供連れでこられてにぎやかであった。このころ毎日のように近在の人がお寺の草とりにこられていた。 十七日(土よう)は高校野球。東海大相撲と鹿児島実業のテレビに興じる。 そして十八日。R庵に入るつもりが月末の三十一日にのばされたのである。理由は不明である。 十九日には阿波の鯖大師にまで海水浴にいっている。 二十一日にはM寺さんの友人宅に招かれて、ビールなどをごちそうになる。実はこの日は小生二十七才の誕生日だったのである。 二十四日には、萩生西の太鼓台が関西テレビに出演したことの打ち上げ祝いがお寺であり、にぎやかであった。 二十五日には朝八時に出発。土佐中村市の今大師に午後二時頃に到着。夜隣りに寝た人は、当時八十二才の老人で、十七才の頃よりおきゅうなどをおろしていたとのことで、薬草の事なども詳しい人であった。翌朝にもこの人と色々話をしたのであるが、代々大峰系統の行者さんとのことであった。 二十六日も今大師ですごし、二十七日には今大師で知り合った人の家に寄ったりして、四十番観自在寺前のK君(遍路中に善根宿をいただく)の処に泊めていただく。 二十八日には、大洲、内子、梅津、砥部経由で松山に入り、S君の処へ行く。同じ社員のK君と友人のS君がきており、四人で遊び、夜釣りに出かけ、小生はうなぎ一匹つり上げている。 翌二十九日には、道後の温泉にゆき入浴(五十円)。昼すぎにM寺にもどる。夕方R寺より電話があり、小生が若すぎるとのことでR庵の世話役の人が断わった由。ハテサテ。 |