〔二十四〕 絶望の隣りには希望の光が射し込んでいるのだろうが、これは後日になってわかることで、その当時の心中はいかばかりなものであったか。全くの絶望という程の事ではないにしても、日誌の余白は何を語るものか。 八月三十日。広島へ電話。 八月三十一日。広島より電話。別子ライン。大山祇神社。内宮。瑞応寺。 九月一日。台風接近。風吹き、雨降り、さては雨漏り云々。 同じ二十四時間の一日でも、わずか一行に満たない日もあれば、数十行はおろか一冊の本にも書き尽くせない一日もある。どうして書き落としたものか、八月三十一日には夕方まだ少し明るい頃、現在地のお堂にたどりつき、その時の堂守のおじいさんと話をしているのである。 まさかその五日後にこのおじいさんが死亡し、その後任として小生がお堂に入るとは、神ならぬ身の知らぬものかは。今少し揺曳のときが必要であったものか。必然の成り行きであったものか。 九月二日。月曜日。台風(十六号)一過。よくお寺の境内の草取りをしておられるM氏に招かれ、近くの家に遊び、夜遅くまで書道のことから信仰について話し込む。翌三日にもMさんは寺にこられ、熊崎式の姓名学等種々話し込む。 四日は境内の掃除や洗濯等に一日すごす。 五日、松山へ電話。昼頃S君が寺にくる。これから香川、徳島方面へ仕事の由。実はこの日、現在地の堂守のおじいさんが亡くなっているのである。 六日(旧暦七月二十日)金曜日。前日夜お寺で弁当を作ってもらい、土佐行。夜中の出立で、途中で何度も車中で仮眠して、中村市の今大師に着いたのは十二時半である。 朝の夢〜七輪(しちりん)に中の炭火(すみび)がよくイカッていた。 イズモなり!〜と日誌に書いてある。夢占いでは、普通火の盛んに燃え上がるのは、良い事があるしるしと解釈するのである。イズモというのは、サンカ用語で、三角寛氏の本に説明してあるのだが、芽が出るのを、イヅム、イヅメ、イヅモのように言うのだそうで、たとえば、村から村へと渡り歩く職人(昔はナベの底にあいた穴をなおしたり、キセルの掃除をしたり、また傘直しの仕事をする人々がたくさんいた。)は、朝起きて先ず一番に天候の心配をする。雨が降っていれば、今日はイヅマンぞ。と、いった具合に愚痴の一つもこぼしてみるのである。 なんにしろ七輪にいこる炭火の夢は縁起の良いものなのである。 七日、八日とも台風十八号の影響で、雨が降ったり止んだり。両日共にくり拾いをしている。 帰途は帆陰のおばさんの処にたずねて行く。今大師の方に参って来られなかったので、心配がてらたずねて行ったのだが、別段これということもない由。夜に三十三号線を走るのに台風が近ずき、風雨も益々激しく、通行禁止になりそうなところを越え、あとでわかったのであるが、御三戸(みみど)の手前で車中泊まり。 九月九日、朝五時半起床。少し行くと遮断機が設(もう)けてあり、高知方面へは行き止めとなっていた。それから一時間ばかりして、お四国四十六番札所・浄瑠璃寺前のへんろ宿、長珍屋に入る。そこで日中を過ごし、夕方前椿神社近くのS君の所に寄って、夜は釣りに出たのだが一匹も釣れず、小生が網でボラの子やチヌの子魚をとったのを、から揚げにして食している。 この時もS君と大学が一緒で、やはり同じ会社のK君も居たが、この人も今は何処に思案雲。その後ドイツに行ったことと、クリスチャンになった話をきいている。 九月十日。昼過ぎにMの坊さんの話では、前日泉川東田のI氏がこられ、大師堂の話があった由。ここは八月三十一日に、それまでの御足労のお礼にR寺とR庵に参った後、ブラリブラリとしていて立寄った処である。 五日に庵主のおじいさんが心臓発作で亡くなったとのこと。この人は三十一日小生と小一時間ばかり話をしたのであるが、その時には「まあ気長にさがして待ちなさいや」と励まして下さったものである。その本人が、なんのことはない五日後に亡くなって、小生を現在のこのお堂に招いたものである。 当日夜九時半には早速I氏がこられ、小生と話し合った結果、十五日(日よう)に東田大師堂に納まることになったのである。 九月十一日。近くのMさんに頼まれた松掘りの手伝いに行く。夜広島の友人に電話すると、お四国巡りのあと京都であった米丸君の結婚の披露宴の話があった。 九月十二日。木よう日。この日もMさん宅に参り奥さんと話をしていると、外においてある小生の車に怪しき男が近寄り、車の中へ手を入れるので、すぐに外へでて一喝すれば、自転車にのって逃げて行く。後日の話に近所で数十万盗まれた人があったとのことである。 九月十三日。Mさん宅に行ったり、R寺に行ったり(住職不在)して一日過ごす。 九月十四日。この日には六日にみた七輪の夢について、ある本に『火鉢見て相談成立』と書いてあることを記している。 夕方Mさんとお堂へ下見。夜、村のI氏に電話する約束を忘れてしまっていると、I氏より九時すぎに電話いただく。 九月十五日。日よう日。朝十時すぎに大師堂へ入る。―終わり― 補記:もう四半世紀が過ぎてしまった。小学校の卒業文集には「人生わずか五十年」と 書き止めたのだが、すでに五十を越してしまった。許されたと言うべきか、与えられたと言うべきか雑多な日々であったが、これからの目標として何に焦点を絞るかが重大事となってきた。吹けば飛ぶような人生にも何がしかの価値・意味があった〜用意されているに違いない。 『辺路独行』は一応終わり、次の旅立ちを考えているところです。旅立ちと言うよりこれまでにものした雑文を再掲載して、これまでの自身の精神状況の一端を再確認することによって、いわゆる自己検証でしょうか。まだ満足できない我侭な自分の相手をしてやらねばならない。その触媒として遍路に関係しているとも言える。私的精神史の形成を探っているのでもある。幼稚なものにしろ、弘法大師はもちろん不可視的存在との葛藤が小生の人生のテーマでもある。 |