徳右衛門丁石の話
善通寺紀要 第15号より



 四 現認記録−6


 C〔讃岐国十四基〕

 次讃岐の十四基。
 札所寺院数が少なくへんろ道も短いので建立数がすくないのであろうか?しかし寛政六年のものが確認されたことは注目に値する。7と12であるが、特に12の方は、ここらあたりから標石設置の事業を始めたのではなかろうかと思われる。
 八十八番札所へのしるべ石から始めて、先に阿波で紹介した1の石(文化四丁卯二月)で一応の設置事業を終えているのである。徳右衛門の墓碑銘に記してあった「正ニ文化四丁卯年 満諸願也」に一致する。

 1、阿波国佐野、雲辺寺南麓。「ア △ 是より雲邊寺迄一里」。真念の道指南では、さの村清色寺から、雲辺寺迄五十丁程有、といっている。これと徳右衛門町石の一里は同じことを指している。つまり徳右衛門は「五十丁=一里」で距離を計算しているのである。いよでもこのような事例があった。伊予と讃岐では「三十六丁=一里」が一般に語られているのであるが、遍路の場合、少なくとも徳右衛門においては町石設置に際しては「五十丁=一里」を用いていたようである。
 2、雲辺寺境内、「ア △ 是より小松尾寺 二里半」。道指南には同じく二里半とある。1・2ともにモデル図型である。
 3、一里のところ。ここは白藤大師堂旧跡である。今は急坂を下った小祠中腹にほかの丁石と静かに立っている。ここの石は先端が三角形状になっている。施主名は伊予国越智郡の人であるが、読み取れない。
 4、観音寺石段を登った所。ア字が無い。本山寺一里。
 5、ア字大師像はあるのだが、先は四角錐。寛政八年であるが、距離は弥谷寺迄「壱里十八丁」。道指南では札所間は三里のところ。十八丁は三十六丁=一里の半分であり、一里ごとにせずに、丁度中間であるという考えでしたものかも知れない。寛政八年といえば早い時期での設置である。
 6、七十番弥谷寺口。ア字も大師像もない。ただ境界石みたいに「従是」ではじまり「曼荼羅寺迄廿五丁」とある。親切なというか、刻字にはフリガナが彫りつけてある。「与里 古れ 満ん だ ら じ ま天」現代人は躊躇するかも知れないが、昔の人は十分に読みこなしたのであろうか。それよりも端正な配字模様に気を清々しくしたのではなかろうか。文字だけであるが、所謂優品というものであろう。



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