四 現認記録−5 B〔伊予国六十七基〕 次に伊予国の六十七基。 こちらは徳右衛門の本国であり、モデル仕様図様のものがホトンドである。今回はそれ以外の石を先に抽出してみよう。 寺号石を兼ねている まずは刻字の変わったものとして、 10 「アーンク」大師像無しのもの。 11 「四十一番稲荷山」文化五年。 24、25 「ユ」 寛政九年。 34、35、36 改刻「遍照院江」 37、38、65 改刻「中務茂兵衛」 42、44、45、66 戒名が添刻してある。 そして64、三角寺の石は阿波でのべた阿州徳嶋大師講中・坂東祐貞と蓮貞が寄進したもので、石材は阿波の撫養石である。24・25も大島石(花崗岩)ではないようだ。 伊予国分六十七基の内四基については寄進原簿に記述がないのである。一覧表の42・43・44・45、つまり五十六番札所泰山寺から、五十七番栄福寺、五十八番佐礼山仙遊寺、五十九番国分寺までの寺院である。これらは朝倉(徳右衛門の居住所からは近隣の札所寺院ということになる。 このうち五十七番の一基を除いて、あとの三基に共通の特徴として、いずれの町石にも戒名が彫りつけてあることである。町石としての刻字(しるべとしての里数)もあるのであるが、なによりも戒名が彫りつけてあるというのは、全面的に慰霊供養の気持ちが強かったということである。 特に五十六番泰山寺の町石にみられる童子童女の六霊は徳右衛門の子供達なのである。衛門三郎の八塚伝承にも匹敵する、六人の子供達の死が契機となって、徳右衛門は四国丁石の設置を発願することになったのである。 遠祖武田信玄公以来、安芸の武田氏、そして伊予龍門城主へと連綿と続いてきた一族の存続如何が大問題となったのである。次々と子供達が夭折してゆき、徳右衛門に遺されたのはわずかに長女「於くら」ひとりであった。五十七番の町石には戒名がなかったが、施主名がこの「於くら」となっているのである。こうした四基の建立は先に紹介した勧進代舌以前のことか、または以後のことかは確定できないが、他の町石に先んじて設置されたものと考えられるのである。 |