先徳の御阿礼(十五)
〜同行新聞 昭和55年8月21日 第94号より〜



 先日、七月二十七日頃であったろうか、NHKテレビをみていると、ラダック(インド北部)地方に於ける密教図像の写真展の紹介があり、その中に薬師如来の千体図が赤くうつし出されているのがあった。テレビで少しばかりのことで、どこまで確かなことか、とにかくも高野山大学の松長教授の口から薬師如来というコトバが出されていたようにおもう。

 一寸したキッカケがあって薬師如来の存在に目を向けてあれこれととりとめもない思案にくれているのではあるが、ともあれ八十八ケ所中四分の一強が薬師如来を本尊としているのはおどろきものである。数値にまどわされてはいけぬが、これを小豆島八十八ヶ所中に求めると十四ケ寺約六分の一である。ちなみに、観音系が二十一ケ寺。阿弥陀様が十九ケ寺ある。本四国程といわずも、大よそ小豆島程の処でも、やはり薬師如来を本尊とする寺が六分の一位あるというのは可成りなことである。

 前々回かしら、高野山金堂内安置の本尊について少しのべたのだが、その際に薬師如来か阿シュク如来かの異説があることがわかった。このことはまた、大日如来の御阿礼たる他の四仏のも関連したことである。すなわち中央大日如来をとりまいて、阿シュク如来・宝生如来・無量寿(阿弥陀)如来・不空成就(釈迦)如来の四仏が居られるのだが、この中の阿シュク如来の変わりに薬師如来をもち出している場合がある。つまり高野山金堂の本尊と同様のことがおこっている。

 世に〈光明遍照十界輪廻図〉というものがあり、その中に梵文わずか二十三字ではあるけれども、これを先程の五仏に比して当てはめている。

 オンは帰命、供養の義。アボキャベイロシャナウは大日尊。マカボダラは薬師仏一度聞くもの念ずるもの衆病悉除の大利あり。マニは如意宝珠宝生如来。ハンドマは蓮華阿弥陀仏如何なる罪垢も清まりて極楽往生疑いなし。ジンバラハラバリタヤは釈迦如来の光明云々。ウンはすなわち能破の義……。

 以上のように阿シュク如来はなくて薬師仏が五仏に入っておられる。またこれも薬師ではなく阿シュクであるとの説も無論有力である。唯、梵字〈マカボダラ〉の意味が問題である。訳して〈大印〉というのだそうで、これをまた〈五色光印〉とも称し、真言宗の僧侶が法事などの際、光明真言を唱へつつ、衣に入れてあげている右手の印のことである。衣にかくされた右手の指先から五色の(つまり五仏に開かれた大日如来のオーラ)霊光が放射されている姿である。

 これがどうして薬師如来とされるのであろうか。脇士として日光月光の菩薩をはべらせているように光明をつかさどるからであろうか。薬師如来は東方るり光世界の主人であることにも起因していよう。この東方ということはまた、阿シュク如来の住所をも連想させることだ。

 さて短期間ではあるが、先徳の御阿礼と題して小生脳中に御阿礼したることなどを書き連ねてきたものの、一応この辺りでシマイをつけようと思う。

 当初道範師等のことを述べていこうとしたのであるが思うようにもならず残念なことである。先徳というコトバを、道範師等にのみならず、最高仏たる大日如来に求め、マンダラの展開といった公案を横目でひねりつつここまできたわけである。

 最後に密教大辞典・雲伝神道の項にいわく

古代の初神は悉く我国固有の大道を人格化せるものにして、
密教の曼荼羅の展開と同趣意と見るなり云々

 ここにいう大道とは、宇宙永劫の活動をいい、人格化とは、御阿礼の一端をもって挙示したるものであろう。


我はまた 道にミアレシさざれ石 いわおとなりて 栄ゆる御代に


実を結び 諸仏諸神の 福徳を 芽吹く楽しみ 新米大師


(了) 新居浜市・新米大師



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