その2 ○伝説 ある夏のこと、一人のヘンロさんが山道をのぼっていましたが、疲れと喉の渇きに打臥せていました。 その時、一僧がきて楊枝でお加持した所、そこより清水がわき出てきました。そしてその水でもって打臥せる人にそそいだところ、そのヘンロさんは無事に助かったということです。 そして楊枝をさしたのが根づいて、その根元より水が湧き徃来の人々に役立ったということです。 この水が今に湧き出ている「柳の水」または「楊枝の水」とも呼ばれ、目印しの石もあります。 ○ 真念法師の「四国礼功徳記」にはあらまし右のような話が紹介してあります。重複しますが「道指南」からも引用してみましょう。 これよりしょうさんじまで三里。山坂にして宿なし。壱里半ゆきて柳の水有。大師いませし日、旅人のつかれをかなしませ給ひ、菩薩道具の楊枝を路のかたはらに立たまへバ、大悲の水わき出、いまにたえさぬ加持力、やうじもいとうるわしき糸柳となりてあり。それよりして辺路のともがら涸魚のくるしミを一杓の下にのがる、また標石あり。 ○ この時代(貞享四年、西暦一六八七)にはまだここには「庵」は無かったようです。だが昔から行き交ふ人々の「水のみ場」として知られていたのでしょう。 何時頃から「柳の水」と呼ばれ地名になったのかは不明です。俗説では「楊枝(柳の枝)」をつき立てて水が湧いたので「柳の水」と称したごとくありますが、実際には流れ出る(湧き出ずる)水のありさまが、ちょろちょろとして柳の葉のごとく細かったので、それで柳の水と形容したのではないでしょうか。 南予の柏坂(四十番から四十一番への道筋)にも、やなぎみず大師と称す所があり、やはりそこにも湧き水(しみ出し水)があり、恰好の息次場所となっていました。 中務茂兵衛さんはここにお大師さまの坐像を据えておられます。施主は讃岐の塩田氏ですが、「息次大師・加持水」と刻してありました。 |