七 両地域に足跡を残した人 四国辺路世界と熊野街道を往来していたのは、生活に関わる物流、また商いに携わった人々が多かったことであろうが、やはり順礼・参詣の人も多かった。千度参り百日参りといった地域限定の順礼参詣の形も良く見られるが、ひろく四國西国秩父坂東百八十八ヶ所参りに赴く人達もいた。 そんな中、今回は四国で見た札の主で、熊野街道大泊に足跡を残した人達を紹介しておこう。残念ながら先の回国行者連中では相当する人物を確認できなかったが、まず小生在住の伊予国新居郡(現在の新居浜市)の人。 若山家所蔵納札群(報告書33‐60) 慶応四年五月、まさに維新前夜何を考えての巡礼旅であったのだろうか。
慶応四伊予西条金子村
西国三十三所 五月吉日兼吉 願意などは不明。単純に家内安全程度の気持で、旧暦五月、梅雨時分であるが、田畑の心配は無かったものか。新居郡内旧街道(辺路道)沿いの木賃宿の屋根裏にあった俵札に同一人と思われる「白石兼吉」のへんろ札があった。
明治十一年寅二月吉日
奉納四国八十八ケ所同行弐人 伊豫國新ゐ郡金子村白石兼吉 兼吉札 先の西国参りから十年後である。同行弐人とあるが、この時も一人旅である。願意も記していない。 次に、同じく伊予(愛媛県)の人。 若山家所蔵納札群(報告書24‐59)には左のように載っている。 版 神社仏閣、天下泰平、日月清明 伊予 宇和島城下袋町 願主豊吉 梵字 どうやら小生所持のものと同一の札のようだ。いわゆる、神社仏閣順拝を標榜した回国行者札である。姓がなく豊吉という名前のみであるところを見れば維新前幕末期のものであろう。
天下泰平伊豫宇和嶋城下
梵奉 納 神 社 佛 閣 順 拝 日月清明袋町願主 豊吉 豊吉札 梵字 (キリーク)は千手観音菩薩を示す事もあるが、たいがいは阿弥陀如来である。阿弥陀三尊仏としてよく観音菩薩と勢至菩薩を従えている。前述回国行者札六百十枚の内にかぞえたが、阿弥陀信仰札の方には今回は入れていない。豊吉自身がどれだけ阿弥陀信仰を意識していたのかは不明。しかし報告書にある如くこの札は名前まですべて「版」印刷であり、「神社佛閣」とあれば、四国西国に限らず全国何処でも(言葉上矛盾なく)通用するのである。 三点目は芸州(広島県)の家族。祖母と孫である。孫が願主となっており、祖母は付添っただけのことか。筆書きもしっかりとしたものである。 若山家納札群(報告書6‐45)
藝цタ藝郡中野村住人
奉納 四国西国秩父坂東百八拾八ケ所 儀助 同行三人同人祖母 たツ女 百八十八ケ所とは、四国八十八・西国三十三・秩父三十四・坂東三十三、つまり百観音霊場に四国の八十八を合わせたものである。ここには願主の言葉は無いが儀助になにか不都合なこと(身体的欠陥)があったのではと考えられる。祖母の付き添いを必要としていたきらいがある。 同じく四国(遍路)札には野村の姓をつけているものの、生憎と具体的な願意は無い。年代も書いてないが明治になってからのものであろう。
南無大師編照金剛藝цタ藝郡中野村住人
奉納 四國中霊場順拝願主 野村儀助 天下大平大願成就 同行三人 同人祖母 タツ 野村札 願意は無いと言ったものの、とにかく「大願成就」の言葉は何事か深刻な問題があったのではなかろうか。百八十八ヶ所参りを済ませて、なお明治の世になって、あらたまて四国遍路に出てきたのであろう。推測でしかないがこの様に考えられる。 |