異域地巡礼の納札研究
善通寺紀要 第18号より



 三、札・札所のこと


 これらの札は札所に打ち付けたり、備え付けの札箱に納めたりしたものとは別に、一般家庭の屋根裏に蔵したものなどがある。筆者はそうした屋根裏に蔵されていた、いわゆる「俵札」を主として述べるものである。

 札所の存在としてはすでに善通寺の場合について『四国辺路研究』第二号で指摘しておいた。承応二年一六五三に辺路した澄禅(※9)は「善通寺・・・薬師如来大門サキニ有」と記録している。次に三百年まえの実態である。すなはち元禄二年一六八九『四国禮霊場記』(寂本)(※10)の、善通寺の挿図によれば、境内の外、水路と畑地の南側「古の善通寺屋敷」とある林の中に【札所】が描かれてあるのである。

 すなはち寺院などの本堂とか大師堂などとは別の場所。まさに伽藍群の側ら、境内の外に「札所」という小堂があった、別に用意されていたという訳である。寂本の霊場記挿図ではただ一ヶ所善通寺辺にのみ「札所」が出てくるのは、他の札所とは違う特別な理由があったのであろうか。

 真念の『四国邊路道指南』貞享四年一六八七(※11)では札ばさみ。紙札、辺路札の記述があり、当然に各寺院において札を納めることとした前提があったものと考えられる。しかし納札場所についての記事は見当たらない。「札を打つ」という言葉があるものの、札を「貼る」にしても、それについての具体的な記述は見当たらないのである。こうした状況下時代が下るとは言え屋根裏に温存されている俵札こそは、貴重な歴史遺産と言える。昨今旧家が解体処分されるたびに、襖の下張りとか俵札なども捨て置き破棄され失われているのは全くもって残念な事である。

追記 霊場寺院における札所については善通寺の場合は前述のとおりであるが、文化年間伊予松山の真言僧の遍路記『海南四州紀行』(※12)に次のような記事があった。

三十八番 蹉
・・・十三重ノ石塔アリ 満仲ノ寄付ト云古雅ナリ 右ノ奥ニ入テ多宝塔三間四方 左ニ大師堂・・・左ニ宮一丈ニ二間 立社二宇並フ同五間ニ二間ノ社一宇 拝殿五間ニ三間ナリ 水天祠左ナリ五尺四方ナリ 道ニ○三尺四方ノ祠アリ 左ニ愛染堂・・・ 
 *「○納札堂四尺四方」と添え書きあり。

 この記述は文化元年一八〇四であるが、『四国遍礼名所図会』寛政十二年一八〇〇(※13)の詳細な寺院の境内図には、残念ながら描かれていないようだ。大きく無いものの「納札堂」の有ったことを伝える貴重な記事である。
 なお西国霊場では「六角札堂」(二番、三番)とか「御札堂」(四番、五番、)また「札堂」(六番、十番、十五番)。「札打堂」(五間四面、七番岡寺)などがあった。宝暦三年『伊勢参宮西国道中日記』(※14)に記事が出てくる。

 「道ニ」あった三尺四方の祠がこれであり、寸法を四尺四方に変えて添書したのであれば、門前「装束場小社有リ」というのがこれに相当するものかも知れない。善通寺のように、やはり寺院の外側に札所は構えられていたということになる。


○ 札供養塔

 少し話がそれるのであるが、民俗というのか、また風習というか納札場所というものを考察する場合の資としてここで紹介しておくものである。それは納札の為の石塔があったという事例。文献は勿論、このことに関しての記録は不明である。

 一昨年(平成二十二年秋)に家内と「出雲札」(出雲三十三番霊場)に詣でて目にしたものである。現在の札所寺院などでは本堂大師堂などの正面に金属製の箱が設置してあるが、そのような考えのもとであったか、大きな石造の札入れの筒塔を設置していた(出雲札の呼称があるごとく、この札は順礼=巡礼を意味しているのである)(※15)。


札入れ塔


※9 『四国遍路記集』昭和五十六年、伊予史談会
※10 『四国霊場記集』近藤喜博編、勉誠社刊行。
※11 『四国霊場記集別冊』近藤喜博編、勉誠社。
※12 『海南四州紀行』写本、伊予史談会蔵。
※13 『四國遍礼名所図會』復製発行者・久保武雄、昭和四十七年十月一日。
※14 『四国辺路研究』第十一号所収 伊予の人幸吉が宝暦三年一七五三に四十八日間におよぶ旅日記。
※15 『出雲巡礼三十三所霊場記』珪道 寛政十年一七九八。




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