一、是までの拙稿について 小生が納札研究に関わり駄文をものしだしたのは、『同行新聞』(※4)第140号、昭和五十七年のことである。それからしばらくは昭和六十一年第300号迄十数篇あれやこれやと模索しつつ小文を重ねていた。同時期新居浜『郷土史談』誌(※5)には郷土研究的視点を考慮しつつ書いたものがある。 その後『同行新聞』の停滞休刊にともない、単独誌『四国辺路研究』(※6)を始め、その第二号で広く「辺路札について」述べた。それまでの調査四国内三ヶ所(愛媛県今治市、新居浜市、高知県大月町)で発見された、いづれも俵札所蔵の札類で総計一万五千枚強を対象としたものである。 次にまた「辺路札について(南予一本松 蕨岡家の俵札)」については第六号。さらに第十号「辺路札続稿」。香川県大川郡志度町、瀬尾家蔵。第十二号「辺路札四」。第十四号「俵札特集《徳島県・安丸家の場合》。その後も十八号、二十六号と連ねている。詳細に立ちいることは出来ないので簡単に拙稿目録を。事柄によっては再説することになる。 ○拙稿目次
『郷土史談』 昭和57年10月25日発行〜 第87号 「庵主小記四」 紙に印刷 元々は木の納札 奉拝禮百八十八番同行三人 第195号 「千足山村石貝と辺路札」 石鎚山北側の小村の夫婦、別の家族三人、堂守、計五枚の札について 第221号 「辺路札余話」 大月町(土佐幡多郡)の多量の札 一、屋根裏の俵の中に… 二、郡別枚数 三、四国各県別の枚数 四、大洲藩の家紋を冠した辺路札 五、月山参詣 六、その他の人々 『四国辺路研究』一九九三年(平成五年) 2号表紙
これほど書いて来たのにまだまだ物足らないというか、書きたいことが沢山にある。対象は充分にあるのだが、みずからの知識が足らない。いわゆる浅学非才ということだ。大学時代での勉強不足というより、人生における興味、根底的に所与の世界、あいまいな発想能力によるものだ。ところがそうしたことも時と共にあらたな世界が登場して引導(ひっぱり指し示す)の視点が用意されてくる。それが今回の熊野街道善根宿若山家の俵札であった。 ※4 創刊号、昭和五十二年八月一日・終刊は第326号、昭和六十二年八月二十一日付。 ※5 『郷土史談』第一号、昭和五十年八月二十五日新居浜郷土史談会発行。 第210号より『新居濱史談』(1993.1刊)に。2012.10刊で第388号になる。 ※6 『四国辺路研究』1993.3創刊号、不定期刊、単独発行誌。第30号、2010.4. |