六、地蔵信仰 文化元年(一八〇四)に伊予の真言僧、英仙本明と胎仙頓覚が遍路した時に記した『海南四州紀行』というものがある。このなかに月山の様子を「スベテ零落旧疎也」と述べているが、先の山内諸堂社の記録とはかなり相違している。 (9)の「寺一宇」らしきものは、「三間半ニ六間、内ニ前通一間ニ三間板間也。藁葺零落ス」とある。そして(3)(4)(7)は一まとめにしてあったようで、「一間四方藁フキ、四ツ堂角柱也」とある。「四ツ堂」というのは壁がなく吹きざらしとなった簡単な造りの建物である。 また御神体の拝殿(幣殿)であろう、「一丈四方、神前幣帛アリ」となっている。 この頃では御神体への上り道の中途右側にある「石地蔵」について述べよう。 文化元年にこの地蔵尊があったのは確かなのだが、現在は見当たらない。廃仏毀釈のあおりを食ったのであろう。享保時代には、「(9)石地蔵尊座像 一躰」と記録してある。 この石地蔵尊の座像が壊されたものか、或いは近在の何処かに移転させられたものか不明である。しかし幸いなことに、この石像の台座石が残っている。そしてこれには次のような文句が刻んである(藤原秀義氏採択による)。 石地蔵壱躰、百日各夜念佛成就、行者丹波國纉c郡、願誉順故建之 右志者自他爲菩提也 これに関係者(地元の人たちか)の名が連記してある。石地蔵建立の施主であり、また百日各夜の念仏行に参加した人たちであろう。 この石地蔵建立の年代が不明であるが、少なくとも享保時代にはあったようだ。 実は四国遍路史上における地蔵信仰というものを考えているのである。というのも、『地蔵尊の研究』(真鍋廣濟著)にいう、 ……地蔵流しが、最も普く流行したのも……また地蔵盆が大人の営む子供の仏教祭典として民衆の宗教心に深く喰ひ入ったのも此の時代(注・江戸時代)の初頭からのことと断ぜられる。殊に貞亨、元禄の頃は、最も頼もしくも華やかだった時代といえよう。 こうした地蔵信仰の影響が、四国辺地にも及んでいたということなのである。遍路史上、弘法大師一尊化という傾向に並行して、地蔵信仰がその基盤をなしていたともいえる。たとえば真念法師。彼はその活動中、象徴的ともいえる足摺手前七里に建てた真念庵の本尊を、弘法大師ではなくて地蔵菩薩としている。 また、江戸時代中期の木食僧仏海上人。彼も真言僧として真念にならって、室戸手前五里の地に仏海庵を建てて、そして土中入定を果たしている。この仏海上人も庵の本尊は地蔵菩薩としている。木彫行者として全国に三千体もの地蔵尊を彫って施与していることも忘れられない。 真念や仏海の他にも、いわゆるプロの密教尊における地蔵信仰を四国路に見出すことは容易なことである。しかし、俗家の遍路が増加するに及び、より身近な人格・弘法大師への信仰が、いわゆる一尊化の傾向を推し進めたのではなかろうか。 また余事になるが、『月山略縁起』には「弘法大師真筆星除名號木板有之」とも記している。ここにいう「星除名号」なるものは何であろうか。南無阿弥陀仏の六字名号であろうか。 浄土宗大本山知恩寺(百万遍)には弘法大師真筆の利剣名号(と称される南無阿弥陀仏)が現存している。先の台坐石に刻んであった「百日各夜」の念仏をして地蔵尊を建立した丹波の行者は、「誉号」を持っており、どうも浄土宗の僧と思われ、こうした辺りにも「名号」信仰の存在が頷かれる。 現在では珍しくなったが、木食層や回国の修行者による名号札の賦算(一遍上人が有名である)が、四国遍路界でも行なわれていたのである。 |