五、守月山月光院南照寺 『四国礼霊場記』の月山 『四国礼霊場記』の図によれば、御神体・月山の下に大師堂があり、さらにその手前、寺山道側に寺があったようである。寺号も山号も書き記していない。しかし享保七年中興四世慶学法印が書写した『月山略縁起』には、「号守月山南照寺」と記している(『土佐国幡多郡 月山神社考證』、昭和一二年、寺石正路著による)。 『神社考證』中で紹介してある「月山略縁起」によれば、守月山の諸堂社として次のものをあげている。
以上のようで、『四国礼霊場記』の書かれたころ(元禄期、一六八八〜)とはまた随分と建物が増えている。月山が霊場として一番興隆した時分であったのだろう。 (5)と(6)は寺の南側、海岸よりの山に少し離れてあったようだ。脇堂というのは小堂であろう。いずれにしろ本尊は(2)により大勢至菩薩であったことがわかる。 御神体が「月石」なので、それで月待ち行事(二十三夜待ち)の本尊である大勢至菩薩がここの本尊とされたのではなかろうか。 ところが美作の回国行者与兵衛の納経帳によれば、本尊・千手観音となっている。元文二年(一七三七)のことである。少し時代が下がって、安永三年(一七七四)、伊予出身の小野義鶴という人の納経帳では勢至菩薩となっている。 右両者とも、納経を受けたのは月光院となっている。美作の行者のものが単なる間違いとすれば問題外であるが、どんなものであろうか。 実は澄禅の『四国遍路日記』には、この月山の寺には妻帯の山伏が住んでおり、「千手院」を称していたという。つまり「月光院」とは別の山伏・千手院がいたというのである。そうとすれば千手観音を本尊としていたとしてもおかしくはないことになる。 千手院から月光院への変化は、単に修験者の異動によるものであろうか。 いずれにしろ江戸後期の他の納経帳には本尊勢至菩薩で、守月山月光院(南照寺)を名のっている。 千手院というのは元来は山伏(人)に付随した院号であったが、月光院というのが何時のまにか当所の寺号(寺)に付随したものとなってしまったのであろうか。 |