四国辺地の霊場・月山
〜平成元年(1989年)・10月23日号より〜


 二、真念の功罪

 江戸前期四国編路者の為に活動した真念法師は、霊場月山に関して次のように記している。

 ……真念庵といふ大師堂、辺路にやどをかす。これよりあしずりへ七里、但さゝやまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよいりもどる。月さんへかけるときハ荷物もち行。初辺路ハさゝやまへかくるといひつたふ。右両所の道あないこの庵にてくハしくたづねらるべし。
 (四国辺路道指南、貞亨四年刊)

 下線部は江戸時代前期における伝承である。「初辺路(しょへんろ)」という表現は、二度、三度と巡りつづけることを前提としているのであろうか。それとも、一度切りしか辺路しない俗家(庶民の)遍路を対象として言っているのであろうか。

 遍路と別に「日本中回国」の行者がいる。この人たちは諸国行脚の途次、四国にくれば当然に遍路者となる。こうした回国行者も、先の「初辺路」の枠に入れ込んで考えるべきであろうか。

 いわば、こうした回国行者はプロの修行者として考えられるべきで、どうも真念法師のいう初辺路(俗家辺路)とは別のものとして見るべきであろう。

 江戸時代中期の回国行者・美作の与兵衛(元文二年、一七三七)も、伊予の小野義鶴(安永三年、一七七四)も、どちらも初めての四国行脚で月山に参詣している。そして真念法師の勧める篠山には立ち寄っていない。ただし、微笑仏で有名な木喰五行上人は月山・篠山の両所に立ち寄っている(天明十年、一七八七)。

 真念法師は四国辺地の難所「あしずり道」において、その手前七里に自らの名を冠した真念庵を建てると共に、三十八番金剛福寺から次の札所三十九番延光寺への最短コースとして七里「打ちもどり」のコースを推奨している。

 現在三十八番札所・足摺山金剛福寺の門前にある立石によれば、「寺山(三十九番札所)まで十二里」、そして月山経由では「従是寺山江打抜十三里、月山へ九リ」とある。これは五十丁・一里の計算である。

 ところが昭和九年の『同行二人、四国編路だより』(安達忠一著)によると、次(寺山)へ「御月山を経て十九里余」又は「市野瀬(注・真念庵がある)に打戻り十三里十町」となっている。こちらは一里・三十六丁の計算であろう。

 江戸時代と昭和の時代とでは多少その距離の数値に混乱をきたしているが、月山経由が長距離になっているのは変わりない。月山道は人家が少なく、宿とか食糧確保の問題もあったと思われる。それ故に真念法師は旅慣れない初遍路に対し、より安易な七里打ちもどりの道を勧めたのではなかろうか。



月山へのしるべ石



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