駄家通信 1



 昔の、つまり二十代(学生時分)の自分から想像できないのが、現今の古文書学習のことである。中学時代には書道(習字)は六クラス三百五十名くらいいた中で、おそらくビリであった。中一で初めての習字の授業で、先生(吉田秋洞?)に叱られた記憶がある。

 それ以来「も一」―もう一寸の意―を頂戴するばかりであった。残念ながらその時代の書いたものは見当たらない。今とあまり変わったものでは無かろうが…臨書ということが苦痛であったというより、なかなかにそのような気分になじめなかったのである。模倣ということとは違うのであろうが、性(しょう)に合わなかった。そうしたセンスがなく、乱雑さが優っていたのは、男四人兄弟の三番目というのも遠因ともおもわれるが、所詮粗雑な神経の持ち主であったと諦めておこう。

 崩し字についての思い出と言えば、或時父が「喜代吉の喜は、七十七と書けば良い」と言ったのを覚えている。ほかの崩し字は嫌であったが、七十七だけは少しは使用した。

 何よりも、文字(コトバ)に対する考えを広く、また厳格に生長させられたのは、山本空外先生の講話(於・広島妙慶院)を好んで拝聴したことにあずかって余りある。
 現在所住の場所(新居浜市東田)からは石鎚山が見えないが、そのように、一般の人達からは空外先生の存在は捉え難い。未だに良く先生の講話録などを出してきて読んでみるのだが、やはりその考えや述べられていることに感心同化させられるのである。また残された書跡等を見ても相変わらず心楽しい。毎年十月に島根県雲南市の空外記念館へ行くのも二十回を越えた。

 とは言っても未だに書はやらないのだが、「意先筆後」かしらの言葉を思い出す。太鼓を担がない人間が祭の太鼓について話をしないようなことと逆で、書の話は好きなのであるが、たまさか塔婆等に墨を染めては嘆息する事然りである。




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