四国遍路大師信仰の世俗化について
善通寺紀要 第20号より



 その5


B 霊場開創意識の動き


 四国霊場開創ということについては、いわゆる「御山開」説(※7)に関わる。「弘仁六年」の大師巡錫説などが関与しているわけであるが、ここでは四国遍路世界における大正三年、いわゆる四国開創千百年記念における際立った事柄を述べるものである。


【大正三年の紀念印】

 浅井證善『へんろ功徳記と巡拝習俗』には、緑色スタンプ印のカットとして、番外霊場十夜橋のものが紹介してある。
 円形の内側下部に簡略な木橋の図。通路部分に「とよがはし」とあり、上半分には「大正三年 四國霊 場開創一千百年 大法會 紀念」とある。ここで問題なのは、十夜橋が番外霊場であり、本札所側との関係である。そして「大法会」とは何をどの様にしたのか、具体的な法会の様子が分からない。少なくとも近隣の真言宗僧侶が集まって報恩感謝の供養の誠を捧げたであろうことは、想像に難くない。
 右に連動していたことにやはり伊予の番外霊場三角寺奥の院・仙龍寺の『記念碑』がある。大正三年「発起人 大先達 中司茂兵衛」による新四國霊場開創の記念碑である。

 …幸にも本年ハ高祖四國開創より一千百年に相當し、霊場各寺院に於ては、各々誠を抽でて記念大法會を修す當山に於ても又、四月八日釋尊降誕の聖日をトして、郡内二十餘ケ寺の浄侶を屈請し記念法會と共に山内新四國霊場開創のためにて庭義曼荼羅供の大法會を行ふ…
 参照:『奥の院仙龍寺と遍路日記』喜代吉榮徳 一九八六

 右引用文中、「霊場各寺院」とあって、「霊場会」となっていないのは、仙龍寺が本札所でなく番外霊場ゆえであろうか。とはいえ、大正三年を期して四國霊場開創を標榜した活動が広範囲にわたって起こっているのは確かな事である。つまり当時本札所以外でも、大正三年記念スタンプ印を押しているのである。
 ここで気になるのが善通寺誕生院の特別印判である。赤茶けた色の大師立像で三衣袋に左手錫杖に笠を持っている、いわゆる行脚姿である。そしてこの笠には「大正二年」の刻字がみられるのである。大正三年の四國霊場会創説と関係あってのことなのか、あるいは単なる四國行脚(=遍路)のお大師様の姿を偲んだだけのことであったのか。残念ながら詳細不明。当時の遍路を語ろうとしたものであり、番外札所寺院の積極的な活動が各所で見られるのと同様の動きであった。今もなお、四国に行脚されているお大師様の臨在を、強く印象づけさせようとしたのであった。
 さらにもう一点考慮すべき事がある。善通寺《紀念納經》の存在である。


(上部宝珠炎)

 これは大正四年香川県安賀氏の納経帳(※8)に見られたもの。善通寺の大正三年の記念スタンプ印は不明。前述二年の行脚図印と別に四年に押印した「四國霊場開基 一千一百年」紀念納経があったようだ。
 少し時代が下がるが昭和九年弘法大師千百年御遠忌記念に使用押印している、イヨ椿堂常福寺の内容は、「四國開創椿御杖御安置所」であった。四国編路を語るには、当然にその開創譚を必要としたのである。そのことは大正三年の開創記念に際して大いに勘案整理されてきたとも考えられる。



※7
『四国遍路研究』近藤喜博、昭和五十七年。『日本宗教遊行論』真野俊和、平成三年。

※8




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