四国遍路大師信仰の世俗化について
善通寺紀要 第20号より



 その4


【札の種々相】

  まず《大小》であるが、二十枚ほど(大)が長さ約二十四センチメートルで筆書き。その他ほとんど(小)が十五〜二十センチメートル(六寸前後)である。こちらの方は筆書きもあるが、印刷札が多く見られるのが特徴的と言えよう。
 《色札》について、「金札」が一枚。風化破損にて年代氏名などの文字部分は読み取れない。
 次に「赤札」、これは十四枚。人数としては九名になる。
 色札といえないものの、既製札に住所氏名の朱色(紫色)押捺の札もあった。また朱赤の印で施主名のある《接待札》とも称すべきものもあった。「京都市錦魚市場 施主 山市」とある上部大師坐像に南無大師遍照金剛を添えた四國八十八箇所用の青色インクの印刷札である。
 なお「白札」が三枚。一枚は長方形。二枚は尖角状である。これは白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』には、「地方によって若干の違いがあるが、四回まで白・・・」とある。また、橘義陳(※4)『四国道中手引案内』では、「三度め赤札・・・四度め黄色・・・五度め白札を・・・」とある。
 「青色札」は幕末期には少しばかり目にすることができたが、今回のは印刷用インクの都合によるもので、色札としての意識はほとんど無かったのではと考えられる。
 なお《施主札》としてもう一枚、「施主 山倉」というのがあった。上部大師坐像。南無大師遍照金剛に「家内安全 同業 人 奉納四國八拾八個所巡拝」とあって、先の「施主 山市」札と同様の印刷内容であった。こちらを使用した遍路は因之島(広島県)の村上友吉と鉛筆で書き込んでいる。


【絵像札】のこと

 ここに言う絵像とは大師坐像のことである。これまで調査した近世幕末期の札類では多種多様の仏尊──たとえば、大日如来や阿弥陀如来をはじめとして、不動明王、観世音菩薩、地蔵菩薩などや、弘法大師像にしても坐像に限らず行脚僧としての立像や、拝礼する信者をも描出したものなども見られた(※5)。しかし今回三百二十一枚中には、絵像札としては大師坐像ばかりである。左右向きか正面向きか位の差異はあったものの、まずもって大師坐像のみである。このことには四國遍路と弘法大師信仰上、弘法大師をどのように表現するのかといった、微妙な歴史が見られるのである。
 いわゆる真如親王様大師坐像であるが、今回九十二枚あった。まずは同形の絵姿であるが、注目すべきは像のまわりに添えた言語である。添語のないものA。次に天下泰平や五穀成就などの祈願文句を添えたものB。Cは大師宝号を添えたもの。そしてDは《登録商標》の札。あと二枚Eは、坐像上部に「光明真言祈念」の言葉。

A 四十四枚
B 二十六枚
C 十二枚
D 八枚
E 二枚
添語無し
天下泰平・国土安全・五穀成就などの文句
宝号「南無大師遍照金剛」
「登録商標」
光明真言祈念
計九十二枚

 三百二十一枚の内およそ四分の一強となる。AはともかくB札が多いことについてであるが、元来行者と言うものは、遍路に限らずに、天下国家をはじめ万民の豊楽(安寧)を祈る存在であった。個人的なことは論外としてやはり天下国家の無事運行を祈ったのである。そうした流の中で、弘法大師一尊化の信仰世界となってゆくものの、天下国家の祈願の文句としてここに見られるのである。第二次大戦突入の時代、段々と遍路世界にも軍国調の怪しげな風が吹き始めていたが……。
 真念法師は大師末徒として、強く大師信仰を推し進めたもので、『四国邊路道指南』の中で、用意すべき札の文言としては、札はさみ板裏に宝号「南無大師遍照金剛」を書き添えるように指導している。そして何よりも見返しに弘法大師坐像の姿を入れていることである。いわゆる真如親王様式の大師御影図である。このことと同様に遍路札の中にもこの大師御影図が鎮座することになってきたのである。
 当初真念が意図した文言よりも、より理解しやすい絵像付の札が増加。ついには《登録商標》を獲得した札が登場することとなった。これまでには印刷上の発展進化にもよることであるが、真念法師の大師像の信仰的表現としての真如親王様式図が、三百年を経ても遍路札の中で、登録商標というあまりにも世俗的な世界で認証採用される結果をもたらしたのである、この様式の札は現行の遍路人によっても継続利用されているところだ。
 確定しがたいのであるが、どうやら昭和九年弘法大師千百年御遠忌を期してこの商標札が準備されたのではないだろうか。四国に遍路を観光として受け入れるがための態勢としてのマニュアルとして、納札のあるべき姿として採用案が出されたのであろう。すでにそれまでにも遍路世界においては弘法大師を信仰対象として強く意識していたものであり、登録商標の言葉は無くとも、B様式の札がよく出回っていたのである。そこに信仰表現として究極的完成度を読み取って定型化したともいえる。それも世俗の商業感覚でもって《登録商標》札(※6)が発生したことが面白い。信仰と経済観念の合作である。


・ 九年三月廿九日 熊本県上益・・・ ・
・  年 月 日 横濱市・・ 豊本豊・
・  年 月 日 大津市 向井文子 三枚
・ 九年四月吉日 越智郡・・・ 二十六歳 大沢宗義
・ 下部破損 二枚

 以上八枚、すべて同一印刷のものであるが、所持していた遍路人が関東・近畿・四国・九州と多県に及んでいる。同一のものが多県にわたってあるということは、それらの遍路人に共通の事情があったわけである。
 札始めに際してか、どのようにへんろ札を準備したのかという事になるのであるが、大師の御遠忌事業に積極的に参加したところで販売ないしは配布していたのではと考えられないであろうか。今の所特許庁のHPでもこの札の所在が確認できないだけに残念なことであるが、ともかく昭和九年(もしくは八年)に発生出現した事は間違いないところだ。



※4
〔付説・色札の事など〕、四国辺路研究第十八号

※5
「弘法大師の御姿 いろいろ」、四国辺路研究第二号 絵像大師(阿波安丸家F札分類表)、四国辺路研究第十二号

※6
「大津市 向井文子」、「九年四月吉日 越智郡・・・二十六才 大沢宗義」、「九年三月廿九日 熊本県上益・・・」

登録商標札




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