徳右衛門丁石の話

 その38−14


【武田徳右衛門の業績について】


(承前)

 側面の刻字には、「大正五年・中務茂兵衛、二百六十五度目」の石なのである。ところが向右面をよくよく見れば、くずし字で読みにくいが、「世話人 浅倉村 徳右衛門」とある。この刻字は他の徳右衛門標石と比べると変わっている。まず「世話人」。願主ではない。次に「浅倉村」も浅の字がおかしい。「阿さくら」のかな書きはあったが、「浅」の使用例は他には見られなかった。そして何よりも、大正五年の施主の刻字を避けて脇の方に記録を残したことである。

 さすがに大師像は削らなかったものの、改造することによって願主や施主の名前を消すことにためらいがあったのではなかろうか。それ故中務茂兵衛標石に徳右衛門の名が残されたものと思われる。ところが、一里ほど松山寄りの徳右衛門標石と考えられる分も改刻されていて、徳右衛門もその他施主名も見当たらない。大師のお姿は残して手印を刻み、正面下部に新しい施主名、左右側面には明治四十四年の号と中務茂兵衛の願主名である。

 さらに松山和気の五十三番円明寺に向けて、徳右衛門標石に正面のみ改造が施されている。札所五十四番への里程しるべであったものが菊間町にある遍照院と言う寺への里丁とされたのである。幸いにも左右側面の願主名と施主名は残されている。

 山道などのものは放置されたままであるが、にぎやかな街道の標石ゆえに利用価値が高く、改刻再利用されたのであろう。


 



 おわりに

 あらまし徳右衛門さんの町石について述べてみた。まだまだ未確認のものも多く、不十分ながら道標石設置事業の概要を紹介したものである。貴重な寄付原簿(子孫の武田徳夫氏所蔵)を見せて戴き、新しく分かったことも多々あった。しかし、全体像の解明はまだまだである。
(新居浜市東田)



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