先徳の御阿礼(九)
〜同行新聞 昭和55年6月11日 第88号より〜



 前回、岩上の火ということを少しのべたのであるが、ここでさらに、火と光の相違といったことも気になるのであるが、それはさておき、出雲風土記ー加賀郷の記事

郡家の北西二十四里一百六十歩。佐太大神の坐す所也。
……くらき岩屋なるかもとのりたまひて金弓もて射たまふとき、
光加加明也(てりかがやけり)。故に加々(かか)といふ。

 この話は、出雲の加賀という地名の起源譚である。現在海につき出した処にあるT字型洞窟でのことであろうか。くらくて恐ろしきゆえか、金の弓で射ると、中が光明さん然と輝いたので、それで〈カカ〉と地名がついたというわけである。
 仲々に風土記というものは、方言なまりにも似た、のどかな話が、これもまた簡潔ながらものびやかに語られているようだが、このT字型の窟を説明して

高一十丈ばかり。周五百二歩ばかり。東西北通。

とある。このT字窟にゆかりの神(神崎の窟の)サダの神はあらぶる神として有名である。付近通行の舟人をして大変に恐れさせたものであるらしい。同じ類いの神として、播磨の伊和大神が知られている。古事記などでは活躍することがないのだが、風土記にその片鱗をうかがわせているのが、荒ぶる神として一見良からぬ風貌を帯びてはいるが、まあ前古事記時代に記憶された、ふるい神々面影がしのばれる。

 おおよそ不動明王の坐す磐石に就いておもいをいたしていたのではあるが、大日如来の教令輪身としては、たしかに右手に持っている利剣にその特徴(特性=使命)が集約されているようだ。ところが今一歩、百尺竿頭を進めて、背に負う火えんの意味や磐石の存在におもいをはせると、どうしても具体的な(物的)顕現ということが問題となる。これは身近であるとおもわれるお大師様の存在にかぎらず、如何に心中に鎮座しておられるとは申すものの、我が教主大日如来の存在をとらえるのに、理的側面が強いとはいうものの、どうしてもコトバ以上に、具体的事物に頼らざるを得ない。
 ―むしろ、具体的事象(たとへそれは超六感的形容とはいえ)を伴ってこそ、大日如来の出現が起り、ひいては神話時代における神々の活動(ミアレ)の発展もあるのではなかろうか。この神話時代というも、即今己の精神(霊性あるいは神性というべきか仏心というべきか)の目ざめの時に始まる(ミアレスル)。
 物質も霊の一変形物であり論無く大日如来の所管であろう。ただしここで、木をもって火をおこし、燃え尽きてもえざるということはしっかりと胸におさめておかねばなるまい。

 こうして無限身たる大日如来の御阿礼として、陰陽で語る易の道もあれば、十二光仏に開示する道、さらには我が真言宗の、金剛界胎蔵界のマンダラに表現される道もある。就中、お四国の道を一歩一歩と遍礼することにより、無限身大日如来へのステップとして、高祖弘法大師様と同行二人となるのであろう。



先徳の御阿礼(九) / 先徳の御阿礼 トップ / 先徳の御阿礼(十)