先徳の御阿礼(十一)
〜同行新聞 昭和55年7月1日 第90号より〜



 先日、とある婦人が、スタスタと小生日なたぼっこしおる処に来りて、「本日は奉仕をさせていただいております。実はこの小冊子には」とて云いだすようは、死後のことが書いてあります云々実費で云々〜何のことはない、モノウリノ塔(物見の塔か?)である。何時もこうした時におもうのは、実費すらも己が働いたお金で充足して、みんなに無料配布の奉仕をしたらどうかということであるのだが、重要なことは、わずかな誌代でもそれを出させて、良かれ悪しかれ、その冊子の価値如何を提供し相手に疑団を生じさせることであるらしく、無料配布ということはもっての他らしい。常日頃何の見返りもなしに、お四国の道を歩む遍路さんには接待するのだが、どうもこうしたモノウリの類には、そのアツカマシサ盲信振りには一応の敬意を払いつつも接待の気持ちを起こすユトリのない己れが悔やまれるのだが、ともかくその時に、小生口走ったことは、聖書にミカエル・ガブリエルとあるのも、ミカ神・ガブリ神のことで云々。そのご婦人は(この人にかぎらずキリスト教徒というものは)神は一つにて、あとは御使い・天使とかいうのだそうだ。何のことはない、日本語への翻訳に際しての用語の不徹底によって、神という語の使用上の混乱が生じていることなのである。当然に神学大系の相違にもよることではあろうが、ミカエル・ガブリエルのエルという語は、たしか十字架上のイエスが〈エリエリ、ラマサバクタニ〉つまり〈神よ神よ、何故に我を見捨てた毎しか〉と嘆じた時の〈エリ〉と同語ではなかったか。

 この言葉の混乱ということは、バベルの塔の話に出てくることであるが、時処位を選ばずに、常に生じていることではないか。この歴史上において、宗教運動信仰鼓舞は、新しいコトバ真実の語、神のコトバをもって霊性(神性)の復活(発揚)を行ってきたことは、一人我が真言陀羅尼宗に限ったことではない。

 かって第二次大戦下、日本国民一体となして、精神的思想戦といった用語をもち出して、現今SF的発想に劣ることもないことを真剣に唱えていたものだが、神々の戦いならぬ、言語と言語の戦いということは、哲学界の課題のみならず、大衆一般に大いにかかわりある文化史上見逃せ得ぬ重大事である。

 ニワトリの卵が先か親が先かという命題同様、人が先か言葉が先か。神話上では言葉の方が先行しているようでもあるが、言語の単純化という問題にしても、(我が国における、ローマ字化、漢字制限の問題、並びにおとなり中国の簡略化等)民衆の啓蒙というよりも単細胞化の側面が強いのだが、果たして許されることであろうか。

 神(神名)の統一は古代史上様々の葛藤をうんでいるが、これも御阿礼が不完全で、我々人間与えられた部分よりも、隠された白紙の部分が多いからであろうか。罪多き人間様であるからだろうか。いづれにしろ個々の人格としても、地球人類としても、まだまだ葛藤をし尽くしておらず、千代の八千代にさざれ石がこけむすいわおと成る如く、徳のミアレも期待されることであろう。

 前回紹介せし、建長の頃道範さんらに神託された丹生明神も、今に高野の山中、いづこにか知らねども、密教弘布の思いを抱かれつつ、有縁の僧俗を招かれては見守りつつ、悠々のときをすごしておられるのであろうか。



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