辺路札所、称呼の変容・跋扈について
善通寺紀要 第16号より



 三 代理(兼拝・遥拝)札所の跋扈問題 その2


 簡単にであるが、ここに土州十七ヶ所(及び番外霊場月山)の代理札所としての伊予における遥拝または兼拝の様子をうかがったものである。まさに擬態の札所であるが、八十八ヶ所という成就数に対する遍路人達の要求があってのことと言うよりは、当該関連寺院の経済的欲求が強くあったのではなかろうか。 
 これまで稲田氏の論考は遍路道の変更について大いに興味を抱いておられるのは、地理学専攻の学者として当然のことであろうが、小生においては土佐入国禁止に乗じた新奇番外霊場創設乱舞の様子、及びその意味が気になるのである。
 関西の有名社寺百五十ヶ所巡礼なるものが三年前に立ち上げられている。それより早く「出雲国神仏霊場」が言挙げしていたように思う。
 現在番外霊場として著名な文殊院徳盛寺が登場してきているものの、「札始め大師堂」はその片鱗をみせていない。維新後湮滅(いんめつ)せんとしていたところ武藤休山師が、大正十二年より自費を投じて衛門三郎の伝記やら、道案内の『四國霊場 禮讃』の出版活動をおこなったのである。そうした活動の遠因が今回紹介の土州札所兼拝・遥拝代理行為跋扈によって育くんで来たのではないかとも考えられるのである。

 代理札所が跋扈した事象は伊予においてのみ発生。その前に土州十七ヶ所遥拝、南予四ケ寺遥拝の事も起っていたのであるが、それらに飽き足らない理由として、やはり八十八(以上)という成満数志向が強く働いていたからであろうか。

 四国第一の霊峰いしづち山についてと、土州十七ヶ所の遥拝兼拝の代理札所についてあらましを述べてきたのであるが、もう一点関連した文書『諸御用留帳』伊予国新居郡荒川山村庄屋文書、元治元年(文久四年)一八六四に次のような文書が西条領郡奉行が通達していたのである。安政四年一八五七から七 年後のこと。『諸御用留帳』荒川山村庄屋文書。

阿波土佐等ニテハ近年遍路一切入不申候ニ付
右札所ヲ予讃之両州ニテ引受 札所相建候哉
之風聞ニも相聞へ候。御領分ニテハ有来之札所
ニテも一切脇道為致間敷との建札為致候
仰ニ付、心得違納経等指出候寺も有之間敷候
得共近領之内ニハ最早納経等出候向も有之哉
相聞候。御領分ニテハ寺村共右様之心得違
無之様各組下村々江早々可被申通候 以上
七月十七日
郡奉行所

右之通被仰下候間 此旨御心得可有之候 以上
七月十七日松木友多


*平成二十一年二月十日西古会にて、川上義一氏よりこのような文書があることについて教わる。


 なお二 三ヶ国遍路時代の置き土産で触れた「辺路さまざま」七、飯尾家文書は次のようなものである。同時代遍路界の変動に対処したものである。

 六十 〔旅行差留〕
申し達し候 当□旅行の儀差し留め申し付け候□向後
拠ころなき向きは願い出苦しからず候間その旨相心得
るべく候 以上
二月廿七日
会所
 四ケ村当


*これは元治二年一八六五のことで、おそらく第二回長州征伐の影響ではなかろうか。

 六十一 〔辺路立入差留〕
近来土佐阿波并に西伊予共辺路立入り差し留めに相成り候につき
 当郡上島山村 往至森寺
当村北の坊
南の坊
大生院村 正法寺
右の四ケ寺え札納め辺路参詣いたし候につき三月九日
□□以て右の次第御内々御耳立置き候、この時御取次 
松尾栄八殿
 但し納経の義御伺い申し候所、辺ろ寄恵(帰依)
にて参詣候義に候はば右の寺々本尊寺号ばかり相印し
遣わし候は苦しからざる趣御引合の事なり。


*土佐に辺路を入れなかった話は聞くが、阿波及び西伊予(南予か)の立入を差し止めの件は初耳である。 前項と同様長州征伐に関係しているのであろうか。


 これら六十・六十一は『新居浜史談』第257号、平成九年一九九七に発表したものである。今となっては、「本尊寺号ばかり相印し」と念を押して注意しているのは前掲安政四年の納経帳にみられた「兼拝・遥拝」の代理札所のような事を念頭に入れているのではなかろうか、と考えられる。



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