辺路札所、称呼の変容・跋扈について
善通寺紀要 第16号より



 二 三ヶ国遍路時代の置き土産


 最近ではこの問題―三ヶ国遍路―について、武田和昭「神仏分離・廃仏毀釈期の四国八十八ケ所の動向―納経帳からの考察を中心として─」平成二十一年度『文化財協会報』、香川県文化財保護協会発行で少し論じられている。すでに昭和五十六年『おへんろさん』で紹介されて以来三十年を経ているのであるが、まだまだ十二分に解明されていない。これまでにこの問題について論じ紹介したものは次のようである。

 @『おへんろさん』 森正文・小嶋博巳・森正康 
昭和五十六年 松山市教育委員会
 A「四国へじを歩くー弘化五年の納経帳―」 坂東章
昭和五十九年『同行新聞』第二〇六号
 B「土州十七ヶ所遥拝処」 喜代吉榮徳
昭和六十一年『同行新聞』第二九九号
 C「土州十七ヶ所遥拝所補稿」 喜代吉榮徳
昭和六十二年『同行新聞』第三一〇号
 D「納経帳の話―文久三年―」 喜代吉榮徳 新居浜郷土史談会
昭和六三年一九八八 『郷土史談』第一五七号
 E「辺路立入差留」 喜代吉榮徳 「辺路さまざま 七」飯尾家文書
平成九年『新居浜史談』 新居浜郷土史談会
 F「三ヶ国辺路概略図」「土州十七ヶ所遥拝所のこと」 喜代吉榮徳
平成十年一九八八 『四国辺路研究』第十四号
 G「三ヶ国参りの納経帳」 喜代吉榮徳 新居浜郷土史談会
平成十年一九九八 『新居浜史談』第二七三号
 H『景観としての遍路道と遍路の行程の変化』 稲田道彦
平成十三年二〇〇一
 I『江戸時代末期と明治初期の二家族の四国遍路の旅』 稲田道彦
平成十三年二〇〇一 『香川大学経済論叢』第七十四巻
 J「納経帳から見た、幕末から明治初期の遍路道の変更」 稲田道彦
平成十五年二〇〇三 於愛大巡礼講座述
 K「神仏分離・廃仏棄釈期の四国八十八ヶ所札所の動向
―納経帳からの考察を中心として─」 武田和昭 香川県文化財保護協会
平成二十一年度 『文化財協会報』

 三ヶ国遍路の発生についての大きな要因は、大震災により土佐国への入国禁止が安政元年一八五四に発布されたこと(F参照)によるのである。また宇和島藩の遍路入国禁止が安政二年である(J参照)。
 なおこのほかに元治二年一八六四に旅行差留の旨が発布されているのは長州征伐の影響であろうか。次いで「近来土佐阿波并に西伊予共辺路立入り差し留めに相成り候」ことになり、近在の四か所(往至森寺・北の坊・南の坊・正法寺)への遍路参詣に納経―本尊寺号ばかり相印し遣わし候は苦しからず─といった状況が発生している(元治二年一八六五?)。これは伊予国東部小松藩領(現西條市・新居浜市分)での話。※喜代吉「辺路さまざま」七、平成九年一九九七『新居浜史談』第二五七号 飯尾家文書より
 これも前項と同様長州征伐が影響したものか。西伊予というのは南予すなわち宇和島藩領を言ったものか。南予の札所四ヶ所(四十・四十一・四十二・四十三)に対応させて四か所寺院を取り上げたとも思えないが、実例として四国本札所のなかに交じって、近在四か所のうち一か寺(正法寺)だけ納経したものを見たことがある。
 小生の知見は右のような次第であったのだが、三年前に知人に貰った納経帳のコピーを見て驚いた。Hで稲田氏が次のように指摘していることに関連したものであったのである。


2 幕末時期の遍路道の変更

 …しかし納経帳の中の寺院の受け取りの年は亥年となっている。亥年は嘉永4年(1851)である。実質に彼女の初回の遍路の年は、嘉永4年と判断した方が正しい考えている。また不十分な調査結果ながら、彼女の同時期の遍路の資料番号41(嘉永2年)と43(嘉永3年)は土佐への入国と遍路を行っている(この言明については再度の確認が必要である)。

 ここに言う資料41と43はその内容が提示していないのだが、同様のものとして(つまり南予四ケ寺分の代理納経の事例)資料42、44・45が提示してある。就中44・45(稲田道彦所蔵)について、次のように言っている。

 夫婦で巡礼することは当時としては珍しいものかどうか。土州17ケ所遥拝処とはどこにあったのか。第40番、第41番、第42番、第43番を第47番と第48番の間の寺院が行っている。これは当時別の納経寺院があったことを示唆している。

 まさにこの別の納経寺院=代理寺院の存在についての問題である。稲田氏所蔵資料ではわずか四ケ寺のみの代理寺院しか出てこないのであるが(それも47・48番間でのこと)、実はもっと組織的に大々的にこうした代理遥拝寺院が準備されていたのである。



一 その3 / 辺路札所、称呼の〜 トップ / 三 その1