四国辺地の草堂・真念庵
〜昭和63年(1988年)・6月16日号より〜


 八、遍路墓

 真念庵に没したのは行者(僧侶)ばかりではない。現在も庵のかたわらに寄せてある墓石をみれば、日本各地から四国編路に参ってきた多くの人々が、こうした辺地に行き倒れてしまったことが理解できるであろう。

 四国の遍路道沿いの村では、大ていこうした行き倒れた人々を祀った遍路墓があるが、四国さい果ての地・足摺を目前にしての死には、また、ひとしお特別な哀れさを感じる。

>釈光順信士
 天明三年
>円立信士
 天明八年 阿波
>俗名藤左衛門
 寛政八年 阿波
>行空戒道信士
 文化七年 美濃国
>藤一良妻
 文化九年 備中
>暁誉了天信女
 文化十四年 長州
>法恵妙順信女
 文政五年 江戸

 これらの墓石の他にも、讃州、丹州、播州、備前等の人々のものもある。

 それらのうち、戒名がなく俗名だけのものもあるが、これは、名を刻んだ墓石が建てられたというだけでも可とすべきである。路銭を持たぬ遍路は、墓石などはすえてもらえず、ただ遍路杖を目印に建ててもらうしかなかったのである。

 四国の山間部では、夜に一つの灯りが見えれば、その近くには十軒ぐらいの家があるといわれる。これと同様に、ここ真念庵のような場所では、墓石の数に数倍した行き倒れの人々が埋葬されているのである。

 また真念庵のすぐ隣にある村の共同墓地を通りすぎて、細い遍路みちを少し往くと、明和八年・芸州五良右衛門妻(妙貞信女)の墓や安永二年・法師恵休という人の墓がポツンと立っている。やはり道に倒れた遍路のものである。

 極端な言い方になるが、四国編路の道は、こうした死者で埋め尽くされて繋がっている。その大きな結び目は八十八ヵ所の寺院であるが、さらに様々な結び目が道の随所にみられる道標石である。もちろん真念庵も、そうした結び目として古格なものである。

 こうした小庵や道標石のある風景はなつかしいものだ。しかも、それはかつて遍路に旅出て、行き倒れたかも知れない私たち自身の縁故者の魂の拠り所となっているのかも知れないのである。

 生れきて 残るものとて 石ばかり 我身は消えて 昔なりけり

 四国順拝二百八十回を達成し、二百基に余る道標石を残した中務茂兵衛義教は、この歌を添えた石を二基立てている。これらの道標石を自身の墓標とみなしていたのである。実際に自身の墓はない。

 そして、小さな墓石すら残せなかった人々(行き倒れ遍路)が無数に存在した(している)ということは、四国(遍路)を考える場合には、どうしても忘れられないことである。



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