四国辺地の霊場・月山
〜平成元年(1989年)・10月23日号・24日号より〜


 四、月山

 さて、「ヲツキ」と称されるこの四国辺地の霊場は、どのような所であろうか。明治時代の廃仏毀釈によって随分と変わったものとなっていようが、御神体の「月光石」は今なお古来どおりに鎮座まします。

 中世の記録は不明であるが、天正十七年(一五八九)の長宗我部地検帳には、「守月庵領」・「月宮殿」や「ツキ石ノ谷」と言った語が見える(幡多郡佐井津野村地検帳)。

 これらが現在の月山に関連した名称である。

 月山が特異な霊場であったことは、寂本という人の『四国礼霊場記』によってもうかがわれる。この本の序文は老沙門運敞(澄禅の師)も記している。真念と同道して四国遍路をした小沙弥洪卓のスケッチをもとに、画に堪能であった寂本が八十八ヵ寺の縁起と共に図示して、元禄二年(一六八九)に刊行したものである。当時の札所寺院の境内の様子を知るには恰好の手掛かりとなっているのだが、その中に八十八の札所寺院の外に、特別に月山が紹介してある。他の霊場としては、金毘羅(権現)や源平の戦いで有名な佐藤次信の墓(及び洲崎寺)、月頂山慈眼寺(二十番鶴林寺の奥の院)、それに篠山ぐらいしか札所寺院以外の場所は描かれていない。

 これからもいかに月山(及び篠山)が四国遍路にとって重要な番外霊場であったかがわかる。


『四国礼霊場記』から

 この月山、昔媛の井という所にありしを一化人ありて此所に移し置けるに、次第に大きくなりて様々の霊端あるにより、人みな祈求せる事あれば応ぜずという事なし。媛の井の所の人は精進せざれども参詣す。余所の人はかたく精進せざればかならずあしという。
 (四国礼霊場記・寂本)

 この御神体・月石のところから少し上って裏はすぐ海岸絶壁となっている。現在も神主さんの家以外は近所になく、不便な所である。「最近は全くこちらに参ってくる遍路さんはいません」と老神主は話しておられた。

 しかし、幕末期から明治期にかけては隆盛だったようで、その当時に建てられた町石なども現存している。

 旅人の心は月山影を導ために建るいしぶみ

 この歌を刻んだ町石がある。明治十七年に香美郡(高知県内)の中沢章次という人が建てたもので、

 「従是月山神社迄十八丁」

 とある。これに続いて一丁ごとに月山まで設置されたようである。

 立石の刻字にあるごとく、この頃は既に「神社」として仏教色は殆ど払拭されていたであろう。元来は修験道の霊場としてあったらしく、辺地ゆえか栄枯盛衰も激しかったようだ。



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