四国辺地の霊場・月山
〜平成元年(1989年)・10月23日号より〜


 三、澄禅の場合

 本来は苦行性があってこその遍路修行であるが、一方では道を切り開いたり、道しるべの石を据えたり、或いは真念庵のごとき宿を開設して、その苦行性を少なくすることも修行の一つであった。単なる修行というより大師信仰による「善根功徳」の修行である。

 これは四国遍路というものが、単なる苦行を目的としたプロの修行者たちだけのものではなく、いわゆる大師追慕の俗家遍路たちの信仰の対象となってきたことに対応した、僧侶側の行動である。その代表的な存在として真念法師がいたのである。

 この真念法師の活躍にやや先んじて四国を遍路した真言僧がいる。智山の学匠・澄禅である。運敞僧正に師事した人で悉曇学にも通じ、湯島の浄厳、葛城の慈雲と並び称せられ、『種子集』上・下二巻なども寛文十一年に上梓している。

 この人が承応二年(一六五三)に遍路をして、『四国編路日記』を書き残している。初めての、それもどうやら一度切りのものであったようだが、月山に関して次のように述べている。

 …足摺山エ七里也。寺山江往ニ、ヲツキ・ヲササトテ横道ノ札所二ヶ所在リ。ヲツキヘハ、足摺山ヲ往廻リテ海辺ヲ通リ往ニ大事ノ難所多シトテ、皆是(注、市野瀬)ヨリ七里往テ足摺山ヲ拝シテ、又七里テ一ノ瀬ヨリ寺山へ往ナリ。然バ荷俵ヲ一ノ瀬ニ置テ足摺山へ行也。予ハ跡へリテ無益ト思ヒ、荷俵ヲ掛往、是ハヲツキヲ可拝タメナリ……

 この当時、既に月山と篠山が並び称されているのがわかる。また横道の札所――現代風にいえば番外霊場――として、この二ヶ所は特別に有名であったようだ。

 真念は初遍路はヲササ(篠山)が良かろうと言っているが、澄禅は月山の方にだけ参っている。この当時、既に市野瀬(一ノ瀬)に、(真念)庵があったものかどうかは不明であるが、打ち戻りの遍路形態はあったことがわかる。

 また、もう一つ興味をひくエピソードがある。それは金剛福寺(三十八番札所)から月山に向かう海辺の道で、「高野・芳野ノ辺路衆」と行き逢ったことである。彼らは澄禅と同日に阿波から「逆ニ」巡拝した連中であった。その彼らと、まさに四国さい果ての辺地で行き逢ったのであるから、喜び懐かしさの余り「半時半語居テ泪ヲ流シ」たという。

 これにより、当時でも「逆」にまわる巡拝があったことや、おおよそ足摺山から月山にかけての辺りが阿波から最遠の地であることが分かる。

 澄禅及び高野・芳野(吉野か)の辺路衆といえば、やはりプロの修行者たちである。それ故に難行苦行といわれる逆めぐりや、難儀な月山経由の道を意識して歩んでいるように思われる。



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