四国遍路大師信仰の世俗化について
善通寺紀要 第20号より



 その6


【四国開創一千百年記念】資料のこと


イ「四國霊場開創一千百年傳道」印施〜愛媛県立歴史文化博物館蔵〜


 四國霊場開創一千百年記念傳道

是に大正三年は我四國八十八ヶ霊場御開創より一千百年に當れり
之に依て我等霊場寺院は聊か報恩謝徳の為に記念大法會を修行し
記念傳道として之を印施し参拝の善男善女をして此良縁に遇はし
め現當二世の利益に與らし面と云爾


 弘法大師七ヶ誓願

一、 我れ日々化身を下し遺跡の影向を闕かす、繁縁の法界を加持護念し佛國土を淨めて衆生を成就せしめん
二、 山若し陵廃に及ば禅定の中より法を興隆して教行利人退失なからしめん是れ執してなすに非ず値遇の縁を棄てざらんが為めなり
三、 我が滅後の門徒國界に流布すること其の員多千ありと雖も師は凡て我れ一人に歸す遺場千萬なりと雖も高野を根本とす、我後生の門徒縦ひ我が現相を見ずと雖も我形像を見る毎に眞相の想を生じ我教を聞く毎に我言音の思に住せば我定惠力を以て攝取して捨てず
四、 設ひ直に詣ぜずと雖も杳かに念じて我山に向ひ一華一香一禮一念 浄心に恭敬を成せば此因大果を結ばしめん
五、 夫れ我山は前佛後佛成道の砌り兩部不二法性の土なり胎蔵の峯の内には金界の塔を聳へ金界の内には兩部の尊不二を示せり、我亦た眷属の金剛を領して常に往して界會を成せり適我山に攀ん者は往因を悦ぶべし黙して止なん者は前業を恨むべし現當二世の福専ら此山にあり疑念を生ずる勿れ
六、 我滅後に心あらん者は我名號を聞て恩徳を思念せよ佛法の惠命を興り継て龍華の庭戸を開かしめん
七、 我山は國城の大鎮なり金輪南面の徳を鎮めて寶祚の萬歳を誓ふ峯にして天下の南に在って崩さる者也

大正三年三月

伊豫國松山市 霊場寺院中印施

*この刷り物の印施は、霊場「会」ではなくて、おこか松山の有志寺院で出したものである。当然に札所霊場寺院であったと考えられるが、内容としては、特に高野山への大師信仰を強調鼓舞している。 記念大法会を執したようであるが、何処でどのようにされたものか不明。後掲石造資料(※9)からは、四十九番浄土寺であったのではと考えられる。四国霊場開創一千百年及び千百五十年紀念の供養塔はその大きさに相俟って、四国霊場開創の弘仁六年説を、真偽に関わらず強く高揚させようとしているではないか。


ロ スタンプ印について

 全容を把握するに至っていないが、ほとんどの本札所寺院で準備していたようである。高野山では「大正四年 四國開創千百年紀念 高野山奥之院」。また、四国六十番前札として「四國開創壱千百年 参拝紀念 六十番霊刹清樂寺」も見られた。先にも触れたが、番外柳水庵・月頂山慈眼寺・行基庵・歓喜光寺・四拾番奥院龍光寺・十夜橋・正善寺・椿堂常福寺・仙龍寺・箸蔵山・出釈迦寺奥院・善通寺特別版・海岸寺・高野山出張所讃岐新高野山・長尾寺奥院や真念庵のスタンプ印もあった。


ハ 紀念石塔など
  • 十一番本堂前「順逆道標石」

    *大正三年四国霊場御開基千百年供養記念
    周旋人三好鉄杖 施主瀬川九平

  • 十一番大師堂前

    *四国霊場開創千二百年法縁尊・内陣壁画碑

  • 十三番本堂南石塔二基共に、大正三年一月一日瀬川九平が施主

    *大師立像・宝号、五重塔
    *四國霊場開創一千百年記念

  • 四十八番西琳寺大師堂前「堂号石」

    *本年「千二百年記念」のものである

  • 四十九番浄土寺大師堂前「供養塔」

    *大師堂前に大きな、一千百年と千百五十年記念の弘法大師供養塔碑が並立している。

  • 五十七番栄福寺「鐘撞堂」寄付石

    *大正三年、施主は五十九番国分寺の五輪塔と同一人(※10)である。

  • 五十九番国分寺 石段「記念改修事業」碑 本年のもの
    門柱石「開創一千百年記念」碑
    五輪塔「開創千百年報恩党」

  • 六十一番香園寺 寺入り口「双立石」 本年

  • 六十四番前神寺 木製角塔婆「開創千二百年倍増法楽也」 本年
    大師行脚像「大正五年 開創一千百年記念」(※11)

    *信心の施主名は台座に多数在り。ここでは省略。完成は二年遅れている
    *中司茂兵衛は前神寺によく宿泊していた。所持品中に「惣高サ壱丈四寸」の大師坐像、石工の下絵図があった。これはどこかの寺院に建立しようとしていたのであるが、成就しなかったようである。開創記念を意図したと思われるが、石工(栗田助太郎氏)の体調不良によるものであった

  • 「雲邊寺口 三五〇〇米往復四時間」標石
    側面「四國霊場開創千百五十年歳次甲辰記念」
    「為四國巡拝十二回南無大師第八版記念 後藤信教」

  • 中司茂兵衛遺品中に「四國霊場開創千百年大法會記念御影」第三拾番札所安樂寺、というのがあった。八十八ヶ所本尊が一堂に会したものである。又、道標石設置の様子でも大正三、四年には十一基とあり、著しく目立ったものとなっている。やはり霊場開創記念を意識していたのではなかろうか



※9
四十八番浄土寺大師堂前の供養碑 一対

四十八番浄土寺

※10
山口県下関・重藤ヨネ

※11
「伊予のつわもの遍路 すし駒こと日野駒吉」〜四国辺路研究第八号〜


(了)


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