四国遍路大師信仰の世俗化について
善通寺紀要 第20号より



 その3


○納経帳その二 【昭和六年・九年、白鳥熊之進】


 これは同じく小生在住の村人のものである。昭和六年に本四国八十八ヶ所を済ませ、昭和九年には六十五番三角寺からサヌキ一円八十八番大窪寺までの巡拝をしたものである。やはり千百年御遠忌記念の年に、再度の遍路として、讃岐一国参りを為したものである。

 この遍路(白鳥熊之進氏)はやはり札始めは六十五番三角寺である。当初昭和六年の遍路では、讃岐を終えて阿波に入り、土佐国から伊予に。札所としては六十四番前神寺で一応成就しているが、その後九年後には、追加参拝した所として、イヨの椿堂と七十一番彌谷寺奥之院(※2)の二箇所がある。

 六年の巡拝の際には、本札所外として、六十五番奥の院・奥の院箸蔵山・四十番奥院龍光院の三箇所が組み込まれている。しかし九年の遍路時には前二箇所には参っているが、後者四十番奥院には参っていない。巡拝路上止むを得ないことではあった。そして前二箇所、六十五番奥の院と箸蔵山ともに大師御遠忌記念スタンプが押してあった。このことは札所寺院外としても、つまり番外霊場なのであるが、弘法大師千百年御遠忌記念の行事には四国霊場として参入している。 br
 弘法大師信仰というものの、僧侶側(宗教的立場)からの働きかけでなく、遍路巡拝に直接に関わって、世俗的、甚だしくは営利的活動が強く関与してくるのである。大師の御遠忌や生誕記念の年の、節目節目に高唱された行事の活動の一端を、納経帳の内容の在リ様(記念スタンプの発生)に見出す事が出来るのである。

【御遠忌と生誕記念】
 一八八四(明治一七年)
 一九二三(大正一二年)
 一九三四(昭和九年)
 一九七三(昭和四八年)

弘法大師千五十年御遠忌
弘法大師生誕千百五十年
弘法大師千百年御遠忌
弘法大師生誕千二百年



 この当時、世俗とは別に真言宗僧侶側の活動として、森正人『四国遍路の近現代』において、水原尭榮の『真言宗年表』が宗内で高い評価を得たと紹介している(同書九十七頁)。

 結果的には真言宗内の教学的見地と、世俗の大師信仰信者への現地(四国)での働きかけと両論相俟って、遍路現象の実情があることには違いない。しかしここでもう一点見逃せない事態があった。それは、『一九一四(大正三年)四国霊場開創一千百年』ということである。この時の記念スタンプ印が用意されていたことである。番外十夜橋の例が浅井證著『へんろ功徳記と巡拝習俗』(二百七十六頁)に紹介してあったが、その他にも何点か目にしたことがある。たとえば、四十三番明石寺・四十二番仏木寺・三十九番延光寺・七十二番出釈迦寺・七十一番弥谷寺・七十番本山寺・六十九番観音寺・六十五番奥の院仙龍寺・四十五番岩屋寺・四十四番菅生山など。

 他にももっと見られると思うが、《大正三年の四国霊場改装記念》という事は、本年に高唱されている四国遍路開創千二百年に先立つものとして注目される所である。

 納経帳その一と二によって昭和九年頃の遍路現象事情の一端を考えてみた。なお蛇足になるが藤田研道師(前六十三番札所吉祥時住職・東寺派菅長)は昭和九年十九才の時、母親と連れ立っての徒歩遍路を成就(※3)したということである。

 さていま少し、村内出来(しゅったい)のへんろ札の話に戻ろう。



※2

彌谷寺奥之院

※3
『弘法大師 空海の跡を辿りて』昭和五十八年カラムス出版巻頭言
「私も十九才の時(昭和九年)母親を連れて全部歩いて巡拝した経験があります・・・」



その2 / トップ / その4