十夜ヶ橋

 十夜ヶ橋 (二)




 前回の写真より時代がそれぞれ十年、二十年位あとのものです。つまり昭和三十年頃と、四十年頃のものだそうです。上の写真にある歌碑が下の写真では見当りません。また橋の欄干も変わっています。河川の改修工事によって土堤の下におろされたのです。

行き奈やむ うき世乃人を渡さずば
一夜も十夜の 橋登越茂保由

 この歌碑は明治四十一年(永徳寺住職・観世圓照代)に「森岡茂十郎」という人が施主となって建てたものです。
 当時真言律の僧として名を馳せた「釈雲照」師(八十二歳)が、弘法大師真詠を「恭写」したものです。現在野宿大師の向かって右側にあります。またここは古くからの霊場で「宝暦五年」(一七五五)の「弘法大師燈臺」、つまり夜灯さんがあります。

 前回の阿波の遍路さんのカット図にはこの夜灯が見えません。またよく見るとお遍路さんは小堂の方ではなくて少し右側(橋の方)を向いて手を合わせているようです。
 この当時(寛政期)既に橋の下に、寝姿の「野宿大師」の石仏があり、夜灯(弘法大師燈臺)というのもその辺りにあったものでしょうか。

 さて十夜が橋近くの出身の老婆の話では、この十夜が橋でお接待をしていたそうです。「半切(はんぎり)」という、タライ状の桶(五升位入る)に、「あずきめし」や「赤飯」などをのせておヘンロさんに接待して食べて貰ったそうです。あずきめしというのは普通米を使用し、赤飯というのはもち米を使ったものを言うのだそうです。



 またこの地方の人々には「七ケ所参り」が盛んであったようです。旧暦三月の節句がすんでから出掛けたようです。十夜が橋を朝早く(五時起き)から出発。九里八丁で菅生山(四十四番)ということです。現在境内に立っているしるべ石には「菅生山迄拾弐里」とあります。
 三泊四日の遍路旅。二円もあれば路銀として余る程であったようです。(これは大正の終わりから昭和初期頃の話か?)

 一日目は菅生山の現在の駐車場辺りにあった宿に泊ったそうです。宿賃は十二、三銭。当日に四十五番も巡拝済み。
 二日目。四十六番浄瑠璃寺への道ー三坂下りーは退屈で、同行中の者が、浄瑠璃を語りながら歩いたということでした。二日目は当然、道後の宿で、土産に「もぐさ」を買ったそうです。
 七ケ所といっても、石手寺までで八ケ寺。さらに三津の太山寺や和気の円明寺へ参れば十ケ寺となります。
 三日目には「畑の川」泊りということでした。畑の川というのは菅生山と岩屋寺の中間の村です。とすれば、一日目には岩屋寺へ行かず、最後にお参りしたのかも知れません。


同行新聞第326号 昭和62年8月21日号より
 ※実際には昭和63年3月3日発行、これが最終号であった。


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