十夜ヶ橋 (一) ゆきなやむ 浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋と思ほゆ 一度お四国に入られた遍路さんが、かならずといっていい程、耳にする話です。 小生は阿波二十一番太龍寺でこの「十夜ケ橋」のことを聴きました。 小生が太龍寺境内の石橋を杖をついて渡っていたので、岡山の女遍路さん(ハダシ参りをされていた)が橋の上で杖をついてはいけないことをさとされたのです。 この時に「十夜ケ橋」のことを知りました。昭和四十九年のことです。 さて、カットの写真は、昭和二十年代の十夜ケ橋の模様です。自動車は日に何台か通行したことでしょうが、道幅も狭く、又舗装もしてありません。リヤカーや自転車が見えますが、まことにノドカな風景です。現在では味わうことのできない、空気のやさしさを感じさせます。 江戸時代前期に活躍された真念法師の道案内記には、 …とよか橋ゆらい有 と記述してありますが、その由来については何も述べてありません。 この由来らしきものについて「空性法親王四国霊場御巡行記」には次のように述べています。 …征南の宮矢野の橋十夜の橋とぞ名換へしは大師の行脚の頃とかに、 此地へ来りて宿乞ふに、誰貸し与へん人ぞなし。 闇夜を明す橋の上、寒風凛々肌を透く一夜の寒苦、 十夜にも勝り積れる言の葉は、聞く人感じて斯く名付け、 辺りに堂宇営みて昼夜香花の絶えざるは、人皆知れる所なり… 話のモティーフ(主題)は行脚の途中宿がなくて苦労したということですが、この引用文中(四国遍路記集・伊予史談会編)では、大師が寒苦に悩んだのは、橋の下ではなく「橋の上」となっています。 そして、「征南の宮」(つまり北朝方の人?)が、「矢野の橋」という名称を大師行脚の故事にちなんで「十夜の橋」という名に換えたのだと説明してあります。 この「四国霊場御巡行記」は、四十四番菅生山大宝寺の僧・賢明が執筆しています。 つまり十夜ケ橋の故事に詳しかったのではないでしょうか。この「御巡行記」は全体を通じて南朝方の遺跡についての記述が多く、この橋「矢野の橋」の名称変更についてもその南朝北朝の問題と、弘法大師信仰との絡みでここに記録したものでしょう。 そしてこの人(賢明と空性法親王)の御巡行は「大覚寺」派の教勢拡張の意図もあったようですが、どうも南朝方の供養も兼ねていたようです。 四国路には南北朝に限らず、源平の葛藤も相当に残っていますが、ここ十夜ケ橋のように、いつの間にか遍路現象の中に合流してしまったような所もあるようです。 〇 橋の上にしろ、また橋の下にしろ、野宿のきびしさを体験した人々が共感してこうした大師伝説を守ってきたのでしょうか。 いずれにしろ善根宿を提供しなかったという伝承に異なり、近在の人々の厚い信心については、「昼夜香花の絶えざる」と、前出引用文中に述べる通りです。 地元の人々にとっては余り喜ばしからざる話だったからでしょうか、次のような伝説もあります。 つまりお大師様が橋で野宿されたのは、大洲の人々が慳貪で宿を宿を貸さなかったのではなく、逆にどの人も是非共我が家にお泊り下さいと乞うたので、それで行き場に困ったお大師様は、その村人達の善意に感謝しつつ、村はずれの橋に野宿したというわけです。 身内びいきな話と思われるかも知れませんが、こうした話は四国中の所々にあります。どこでも、誰でもこうした伝説の主人公となり得るのですが、結果としての現在のあり様は、やはりそれなりの因と縁があってのことでしょうか。 〇 寛政十二年の阿波の遍路さんは次のように記しています。 十夜の橋ー大師此辺にて宿御借り給ひし時、 此村の者邪見にて宿かさず大師此橋の下にて休足遊ばしし所、 甚だ御労身遊ばされ、一夜が十夜に思し召れ給ひし故かく云。 大師堂―橋の側にあり。 と、述べています。 カットの図はこの遍路さんが描いたものです。 自分が阿波の人間なので拝礼中の遍路さんの笠には「阿刕」の語が見えます。「迷故三界城云々」の語は見当たりません。 また当時は大師堂が小さかったこと、橋も現在のような大きなものでなかったことがわかります。 |