その9 前回に触れた土佐五台山北、「高須字北大島」にある照蓮の石や、二十二番平等寺にある千躰大師標石の存在によって阿波徳嶋大師講(=真念再建願主照蓮)と伊予武田徳右衛門の丁石設置事業に何かチョットした軋轢(あつれき)が生じていたのではないでしょうか?軋轢とは穏やかでありません。見解の相違といった程度のことでしょうか?
これだけの刻字です。照蓮と聖心の二人のことは勿論、「何某」二人が問題なのです。まさに当事者(当時者)と神のみぞ知る!と言ったところです。小生はこの某(何がし)は武田徳右衛門及びもしきは彼に強く連なる人物と推測しているのです。 徳右衛門墓碑銘によれば四国丁石の設置を「寛政六年」に始めて「文化四年」には「満諸願」、即ち成就(完成)しています。しかしこれまで文化五年以降の願主徳右衛門丁石も見つかっており、文化十一年に死ぬるまでの数年間は丁石設置に関与していたことが分かります。 初めのものとしては寛政六年の丁石が大窪寺迄二里半にあることは本HP稿その4で述べておきました。そのほかに寛政九年、享和二年、三年のものなどが知られています。そして文化五年「これより雪渓寺へ十一丁」(※渓は足偏)石が最近報告されました。本HP稿その6に写真掲載。この丁石のことは近著『ヘンロ道を辿る』小松勝記(販売問い合わせ先:山西金陵堂電話 088-866-8877)で発表されているのを知ったものです。 はかには文化九年「神峯麓江三里半」、文化十一年「是より五社 三里」―以上いづれも土佐国内―が確認されています。 照蓮の活動が文化十三年で終焉しているだけに、この時期における四国辺路界での標石(道しるべ石)設置運動には一寸した波風が立っていたようなフシが見られるのです。それも阿波から土佐国に掛けての話です。 |