その6-1 標石の名称については徳右衛門さんの場合「町石」から始まっています。既述のごとく天尊師の代舌文に「町石勧進」の言葉が使用されているからです。つまり高野山では二百基近くの五輪塔石に「丁」ではなく「町」を刻んでいます。初出はともかく現認されたものとしては十三世紀中頃からこの町石が建立されているのです。(★『高野山町石の研究』愛甲昇寛著、昭和四十八年、密教文化研究所発行による。) 近畿地方を中心とした踏査によるものです。関東地方のものは見当たらないのは研究者の怠慢によるものでしょうか。それとも古くには造立されていないと言うことでしょうか。そして四国のものとしては阿波の鶴林寺と太竜寺のものが紹介してあります。高野山の町石より一世紀余り遅れた十四世紀中頃の造立ですが、これは現在一宿寺境内に数基寄せ集められています。そして太竜寺や鶴林寺の参詣道にも立っています。こちらは「丁」を使用。こうして見てくると、早くから刻字としては町と丁が併用されていたと思われます。徳右衛門町石の場合、具体的には「丁」及び「里」を用いています。それで全体的には里丁石(りちょうせき)と呼ぶのが相応(ふさわ)しいのかも知れません。もっと大まかには里程石(りていせき)という用語を使っても良いのかも知れません。 五輪塔町石(町石卒塔婆)の建立以前には木製のものがあったことが容易に想像されます。いずれにしても町石が先に使用されていますが、具体的には丁の刻字もあるということです。 札所の境内としては阿波二十番鶴林寺で目にすることが出来ます。 『高野山町石の研究』三角寺奥の院へ五十八丁 雪渓寺へ十一丁の徳右衛門町石を祭祀している小祠 |