徳右衛門丁石の話

 その39−3


【武田徳右衛門の里丁石】〜『小松史談』 126号、平成十二年一月十五日発行〜


 ○徳右衛門の墓誌銘

●観月道晴居士、文化十一戌十二月十九日(没)。

 徳右衛門さんの墓は朝倉村水ノ上鷹地にある。屋根付き大師尊像のある立派な墓石である。向って右面に徳右衛門さんの事績が簡略に誌してある。まずこの刻字から読んでいこう。

此信心ノ翁、自寛政六寅歳企四国丁石、

干時高祖大師ノ得深情唯自求幾千ノ施主、

正ニ文化四丁卯年、満諸願之

 信仰心の厚い徳右衛門さんが寛政六年(一七九四)に四国丁石(の設置)を企て、お大師さんのお加護はもちろん多くの賛同者の寄進を得て、文化四年(一八〇七)に成就完成した。

 この刻字中『四国丁石』と『大師の得深情』が説明を要する。厳密には『文化四年』に成就と言うのも補足説明がいる。

 丁石に就いては次項『町石勧進代舌』で触れることになる。「大師の深情を得る」とあるのは、どう言うことであろうか。単にお大師様のお蔭を蒙って道標石の設置事業が円滑に行われたと言う程のことであろうか。何かもっと確固とした霊示・夢告めいたことがあったのでは無いかとも想像されるからである。多くの施主がいたとはいえ、二百基以上の標石の設置には莫大な精力を傾けなければならない。御子孫の話では、余り百姓仕事もせずに遊んでいたと言われるが、これは農事作業を放ったらかして標石設置の為に何度も遍路旅をしていたことを指して言っているのである。

 文化四年に満願とあるが、実際には文化九年銘の願主徳右衛門の標石がある。一応は四年で一段落としたのであろうが、最終的にはその後も設置した標石のことに拘わらねばならなかった。それらの締めくくりとして供養塔を伊予国分寺(59番札所)に建立している。



徳右衛門夫婦の墓



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