徳右衛門丁石の話

 その38−7


【武田徳右衛門の業績について】


 六 徳右衛門建立町石の数

 前述一のH[四国遍路の道標」(村上節太郎、『愛媛の文化』第二十二号昭和五十八年)では、

徳右衛門の立てた道標のうち、現在確認しているのは、阿波七、
土佐七、伊予一九、讃岐一で、一八〇余年の風雨にさらされている。

と書いてある。わずか三十四基でしかない。翌年発行の拙著『四国遍路道しるべ』では具体的な徳右衛門標石の分布・形状・寸法について少しばかり触れている。そして付録として伊予の遍路標石地図を掲げ、真念・徳右衛門・茂兵衛標石の所在地をあらまし示して置いた。大雑把な概略図であったが、その中で徳右衛門については伊予国内五十六基を発表している。

 以後四国中で百基確認を目途として今日まで経過してきた。時期到来し、徳右衛門さんのし孫の方に寄付原簿も拝見させて戴くことができ、ようやく今治史談会で発表させて貰う次第となったのである。

 現認数であるが、百十基を越したのである。では、徳右衛門寄付原簿にはどのくらいの数が記録してあろうか。

阿波 四十八土佐 七十五
伊予 六十六讃岐 二十八

 合計、二百十七本となる。

 伊予六十六本。そして小生が伊予国内で確認した数は六十一基。原簿に記載分で現認したのが三十六基になる。原簿と現認数を合計すれば九十一基となる。これはこれは徳右衛門標石の伊予国内分である。

 四国中遍路の内、予州二十六ヶ所の道法は百十九里半と言われている(『四国辺路道指南』貞享四年刊)。とすると、九十一と言う数は実際に一里ごとに建てようとしていたことを感じさせてくれる。

 四国中道法あわせて三百四里半と言われており、伊予の不記載分二十五基などを加えるとかなりに近い数値となる。

 同じく阿波四十八本の内、十七基。土佐七十五本の内、二十一基。讃岐二十八本の内、八基を確認。なんと百五本。これに伊予の三十を加えると百三十五本が原簿記載分の未確認と言うことになる。数字計算がややこしくなったが、原簿と現認数から、約二百五十本あったということになる。大変な数である。



菅生山へ七里



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