徳右衛門丁石の話

 その38-3


【武田徳右衛門の業績について】


 三 町石勧進代舌

 墓誌銘から話を進め、設置事業満願後の特殊な事情にまで述べることとなってしまったが、ここで一応原点に帰り、勧進文から読んで行こう。


《町石勧進代舌》

そもそも四国八十八カ所の由来ならびに高祖弘法大師の御霊験は古き文に数々説きはえ、しかのみならず御利益の広大なる事は世の人のしる所なれば、拙き筆の彩どる所にあらず。さればこそ星かわり物うつるといえども、参詣の人々日々月々にいやまし、信心の輩そのかずをしらず、この故に所々道しるべはありといえども、只恨むらくは道の里数の委しからざることを憂うる人多し。是によって高祖の尊像を上に据え、長ケ五尺の町石を造立し霊場に立置んことを希うといえども、力ともしければ只願は十方有信の御方、一紙半銭にかぎらず浄財を我願海になげうって、早々此願を成就せば、禍を千里の外にはらい、福は潮のみちくるがごとくならんと、しか言う。

佐礼山

 仙遊寺

天尊題

寛政六甲寅歳正月吉日

朝倉上村

 願主 徳右衛門




 近在五十八番札所の住職天尊師が徳右衛門の善行に共鳴して(実際には依頼を受けてであろうか)、浄財を募る文を代弁したものである。下線部のように「道の里数」、すなわち距離を問題としていたことが解る。そして、里数が問題であるが、石としては〈町石〉の名を使っている。これは高野山にある町石が古くから有名で、その名を天尊が知っていたからではなかろうか。町石は、基本的には丁ごとの単位で立てたものである。しかし、距離的なことの代名詞的な呼称と考えれば良かろう。

 ちなみに天尊師であるが、寛政十二年(一八〇〇)に仙遊寺茶堂建立の石碑にも名を留めている。


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