その38-1 チョット渋滞気味の高速道ではないが旧稿を覗いて見る。 平成9年度『今治史談』合併号No4、1998.である。拙稿「武田徳右衛門の業績について」である。 【武田徳右衛門の業績について】 武田徳右衛門さん(以下、敬称略)については何度か活字で紹介されてきたが、まだ知られていない部分が多い。今治地方では二十一ヶ所参りの創始者として良く知られているようであるが、もっと広く、四国遍路界で活躍されたと言うことが周知されていないように思われる。このことは、今治地方での郷土研究的観点からだけでは武田徳右衛門の業績を理解するのが困難なことによる。 徳右衛門は道標石設置の事業を、今治地方に限らず四国中全体に押し広げているのである。先人としては元禄五年に没した真念法師がいたし、後続の人として阿波の照蓮とか周防大島出身中司茂兵衛がいる。各人とも偉大な業績を四国路に残しているが、ここでは伊予越智郡朝倉出身の武田徳右衛門の業績~四国への道標石の設置~について述べる。 一 研究発表概略史 これまでの徳右衛門の業績についての言及書などは、次のようである。 A:「府中二十一ヶ所霊場由来」龍田宥雄 『今治史談』昭和四十五年 B:『伊予路のへんろ道』一九七八(昭和五十三)年九月 愛媛県生活環境部環境整備課企画編集発行 村上節太郎 C:〈四国霊場八十八ヶ所の町石建立と願主武田徳右衛門〉渡辺達矩 伊予史談会で発表昭和五十四年八月十二日 D:「府中二十一ヶ所霊場 その由来と札所」永井紀之 今治西高史学部『今墾』十四号 E:「四国遍路における武田徳右エ門の業績」永井紀之 今治西高史学部『今墾』十五号 F:「四国遍路における武田徳右エ門の業績」永井紀之 四国霊場五十六番泰山寺『同行新聞』第九十六号~九十九号 G:「丁石建立と廿一ヶ所さんを開設した武田徳右衛門」 『朝倉とその周辺の伝説と民話』朝倉村公民館 昭和五十七年十月 H:「四国遍路の道標」 『愛媛の文化』第二十二号 昭和五十八年 I :「予州徳右衛門標石と四国中千躰大師」喜代吉榮徳 『四国遍路 道しるべ』昭和五十九年 J :「四国遍路道標石史試論」喜代吉榮徳 『文化愛媛』第十五号 昭和六十二年 K:『讃岐街道』愛媛県歴史の道調査報告書第三集 平成八年 他にもあるであろうが、とりあえず並記してみた。 B・Hは道標石の位置および数量確認を記録せんとしたもので、金比羅標石などにも広く漁っている。 Cは活字化されていないが、D・Eに継承されている。永井氏は発表当時高校三年生であった。当時の遍路事情や徳右衛門の人物像にまで考察したもので、画期的な論述であった。史学研究の資として、郷土と四国遍路とを対象としたものである。 I・Jでは、四國路での道標設置事業の流れの中での武田徳右衛門を位置づけようとしたものである。そのためにも、とにかく標石の確認と刻字の解読に意を注いだ。結果百十基を越す徳右衛門標石が確認されたのである。 『今治史談』 『今墾』第15号 今治西高等学校史学部 |