徳右衛門丁石の話

 その37


 だらだらとまるで稿を成していないヘンロ道。「へんろ」新聞に、茂兵衛の動向にあわせて、へんろ石について語らせて貰っているおかげで、自身の雑多なものが少しずつ整理されてきた。整理を大成しなければ成らなくなってきた、と言うべきか。そんな折しも今年は老骨に鞭打つべく面白い仕事が舞い込んできた。それはヘンロがらみではない。これまでこちらにきて是ほどにまで没頭したことは無い。学生時分に傾倒した南方熊楠の所業というのか、コメムシ、ゴクツブシ野郎と叱咤された高野山の土岐法龍(木母堂)師らが頭脳の中味を想像させることがらどもでもある。

 この3月28日、大坂、朝日新聞本社一階・アサコムホールでの「歩き遍路シンポジウム」に招致されたのである。「遍路研究者」であるが、これに際して気づかされたのは、【まず道ありき】である。小生は元来へんろ「石」の存在=その刻字の解読に従事してきたわけで、道についてはあまりあれこれと問題にしていなかったのである。しかし石の存在する場所がらみで、昭和59年発行の『道しるべ、付・茂兵衛日記』においてからすでに、300年前の真念、200年前の徳右衛門、100年前の茂兵衛といった大雑把な時代分けで遍路界の道筋を眺めてきた部分もある。巻末に付した年表には大師の御遠忌ごとの隆盛、つまり道標石設置事業の節目について示唆していたわけである。この見方が穴が地に間違ったものでなかったと確信している。世の中のこと共はそうしたあらましの枠組みがあると便利なのである。いわゆるマニュアルと言うやつだ。

 しかし、およそ、道の固定化には気乗りしない。ぶらぶらに興味があるからである。熊楠が夜間ぶらぶらを投影して実験した話も確かあったように記憶するが、そんな夜道には気を付けなければならない。遍路漬になったわが人生に先がけて多少は各種の思想界に魂を飛ばしたこともある。こんかい大阪でのシンポに前後して懐かしい?青春時代の想念が躍っているのである。

 あまり本は読む方ではないが、最近昨年末から正月にかけて読まされたのが『現代語訳・切支丹鮮血遺書』きりしたんちしほのかきおき、と言う本である。遍路界にはポツポツとカソリックの徒の参加もみられるのであるが、津和野の乙女峠を巡礼する集いが一昨年頭にあったようだ…

 筆や墨に御拓を並べた次第である。



「菅生山へ十里」石。徳右衛門丁石モデル図型としては最大のもである。
これには由緒あるものなのである。



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