その31 どうしても推理的な方向=一般に知られていない知見や見解に傾いてゆくのは自身の悪癖として止むを得ないことではあるが、考察の対象としての道標石が黙して立っていたり隠れていたりしているのが現状。これは当然に「存在」なのであるが、一番小生の居住地に身近なところでは、「是より三角寺迄六里」石。上半分は国領川左岸旧道端地蔵祀の前に立っている。 お地蔵さんの番人的趣である。しかしこの立石=(願主徳右衛門の)大師像があれば往時の遍路世界を垣間見せて呉れるのである。 施主は地元新居浜(新居郡)萩生岸の下の飯尾氏。名前は「逸達」のように読めるのだが…。いずれ庄屋の一族である。萩生村はへんろ街道が村内を通っており、村役人の古文書によって多くの辺路たちの動向がうかがわれる所である。徳右衛門在世当時の記録を一つ紹介しておこう。
残された村役人文書は藩の役人の動静、対応が少しばかり記録されることになる。そしてこうした場合辺路死者の所持物、つまり「物証」が記録されることになるのである。まず身元が問題。何処の国の出身か?であるが、これは手形に依らねばならない。手形「一札の事」によれば、この了性は摂州加西郡田原村、見性寺(禅宗)の檀那で、当時71歳。了性の名前が示すように出家しており、どうやら「堂守」をしていたようだ。ところが遍路に出てきたのは何故なのか分からない。わかっているのは所持の品々が不解なほど多かったことである。それも旅に不要と思えるものまで持ち歩いていたのである。 今回はその所持していた物の紹介をしておこうと思う。徳右衛門の標石に何の関係があるのかということになるが、それは無い。ただ同時代人の異常、異様?なへんろ人の例としてここに書き記すのである。なお了性の「舟上り」切手は、丸亀西平山の宗八が発行したものであった。
とにかく71歳の老人に限らず、遍路所持の物としては異様なのである。手形によれば出立が享和三年五月頃、それから三ヶ月後の縊死であった。四國遍路を一周したかどうかも覚束ない。 九月三日には飛脚をだして加西郡の方へ連絡しているのだが残念なことにはその結着は書類が残っていないので不明である。まあ辺路死の中でも突出した異様な例であった。 - H20.11.25 |