その3 武田家の旦那寺無量寺(今治市朝倉)の過去帳などの調査から《亡き子》は六人だったのではと、梅村武氏の説。これは無量寺前住職龍田宥雄氏説「長女おらくだけは成長するが、わずか11年の間に5人の幼い子供を失ったというのが通説となって」いるが、亡き子は「2男6女」の計6人ということである。ここら辺りの事情は『四国遍路のあゆみ』243p~を参照されたし。とにかく伝説上の衛門三郎に匹敵する苦悩を徳右衛門は抱えたのである。 さて作礼山仙遊寺天尊の『町石勧進代舌』。これは徳右衛門の善行に対して、佐礼山住職天尊が記した勧進の文である。 町石勧進代舌 *朱印 そもそも四国八十八ヶ所の来由并高祖弘法大師の御霊験は 古き文に数ヾ説きはへ、しかのみならず御利益の広大なる事は 世の人のしる所なれば拙き筆の彩どる所にあらず、 さればこそ星かわり物うつるといへとも参詣の人々 日々月々にいやまし信心の輩そのかずをしらず。 このゆへに所々道しるべはありといへども 只惜しむらくは道の里数の委しからざることをうれふる人多し。 是によって高祖の尊像を上にすへ長ケ五尺の町石を造立し 霊場に立置んことを希うといへども、力ともしければ只願は 十方有信の御方一紙半銭にかぎらず浄財を我願海になげうって、 早く此願を成就せば禍を千里の外にはらい 福は潮のみちくるがごとくならんとしかいう。 作礼山 仙遊寺 天尊題 寛政六甲寅歳正月吉日 願主 朝倉上村 徳右衛門 これは天尊師の直筆であろう。代舌の下に捺してある朱印は「辰閏六月」=文化五年(1808)小生所蔵の納経帳にあるのと同一印である。 |