徳右衛門丁石の話

 その28


 施主「新浜善蔵」について。

 この人は阿波国那賀郡答島村の人である。此人が施主となった石が由岐町にある。二十三番薬王寺へ二里、寛政十二(1800)年三月廿一日。刻字を詳しく見れば次の通りである。


(向右)寛政十二庚申年三月廿一日


(正面)本願主豫州

「大師坐像」従是薬王寺二里

徳右エ門


(向左)施主 那賀郡答島邨

新濱善蔵


 こうしてみるとすこしモデル図と違う。梵字アが無いし、「まで(迄)」も無い。そして正面に「本願主 徳右エ門」を持ってきているのは年号を刻んだからであろうか。


 尚次に窪川町三十七番五社立っている石。これも梵字が見当たらない。


(向右)享和三亥年八月立之


(正面)「大師坐像」 是ヨリ足すり迄廿一里


(向左)本願主 徳右エ門

施主 那賀郡答島村

新濱善蔵


 同じく年号(1803)を刻んで、徳右衛門は本願主とある。同年(享和三年)同様の物が一里先、つまり「あしずり迄廿里」石も立っているのである。新濱善蔵は土佐の辺地を意識してのことか、標石設置の徳右衛門の志願に強く共鳴していたのであろう。





 なお「答島村」であるが、これは先だって土地改良区事務所の女事務員が六億円もの着服をして息子に垂れ流ししたことで話題になった見能林村である。明治二十二年(1889)、答島村、見能方村、中林村、才見村が合併して見能林村となった。

 それにしてもあの六億円はどこに流れて行ったのであろうか? - H20.10.5



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