その26-3 寛政六年に徳右衛門が丁石設置の事業を始めたことは、墓誌銘によって明らかなことです。また仙遊寺天尊の『町石勧進代舌』によっても分かるところです。 ところで88番大窪寺へ向けての丁石設置状況を考えてみると如何でしょうか?まず87番長尾寺に願主徳右衛門のものが見当たりません。88番大窪寺にも見当たりません。『道指南』では「四里」とあります。通常の通り一里ごとに設置したものならこの87-88間には5本の徳右衛門丁石があって然るべきところなのです。 前述茂兵衛改刻の丁石A(玉泉寺境内)は、元来は長尾寺迄「一里」のところにあったのではと推測されます。 次に大石の徳右衛門石Bは「大窪寺迄二里半 寛政六寅年 徳右衛門」となっています。ここで何故?「半」里の地点に設置したのかの理由が問題です。前山ダムへんから山手に入り、額峠手前の山中の自然石(地石)Cにあやふやな刻字のものには「是より於くぼ迄二里」。「於くぼ」=「大窪(寺)」。これは下手な拓擦りを頼りに想像力たくましく読み切ったものです。昭和59年拙著『道しるべー付・茂兵衛日記』では「於くぼ寺迄二里」と活字化して発表したものです(「寺」の刻字は間違い)。 そして最近になって徳右衛門のものと分かった石。大窪寺南、阿波道との分岐点には「左へんろ・右あハ みち」の石D。これには距離(里程)が無い。 AとBは材料形状ともよく似たものです(前稿26-2参照)。しかしCとDは当初の発願とは別の理由があって建立されたものではないでしょうか。 向左C「於くぼ迄 二里」、向右D「右へんろ 左あハ みち」 |