徳右衛門丁石の話

 その26-1


 改刻、改変は石造物ではよく見られることです。真念は『道指南序』で、

一 巡礼の道すぢに迷途おほきゆへに、
十方の喜捨をはげまし標石(ひやうしやく・シルシイシ)を建おくなり。
東西左右のしるべ并施主の名字彫刻入墨せり。
年月をへて文字落れバ邊路の大徳并其わたりの村翁再治所奉仰也。

と、「再治」を頼んでいます。しかしこれは改変ではなくて、修理に近いものです。これまでに少し触れているのは、茂兵衛標石への転化使用や他の寺院への寺院案内となった場合です。多くはないのですが松山今治間の例が目立っています。ここでは二基ほど徳右衛門長石が茂兵衛によって再利用されていました。同様の例が他にもあります。


 カット写真は土佐街道平山のものです。中央の舟形地蔵尊は「右ヘンロミチ・四十八丁」ですが、左側は中務茂兵衛「明治二十七年八月」のもので「施主 越前国勝山町 小林平三郎・仝 たま」とあるのですが「巡拝度数」がありません。そしてさらに「願主 讃州出作村 金次」とあります。



土佐街道平山の茂兵衛標石は徳右衛門丁石の再利用!


 向かって右側写真の石の側面に白墨で示した下半分が讃州の金次です。このころは折れて上半分は転がしてあったのです。継ぎ合わせた現状の石を側面から眺めると今少しおかしいなとわかるのですがそれは現場で確かめてみてください。


 何故金次には苗字が無いのでしょうか。そして何故願主とあるのでしょう。素直に考えれば、茂兵衛より先に金次のほうがこの石の願主であったということではありませんか?


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