徳右衛門丁石の話

 その24


 徳右衛門の業績というのは、どう表現したら良いのでしょうか。つまりはその時代的、辺路的といった意味合いのことである。

 前回紹介のように徳右衛門時代には通ったはずの、篠山ー満願寺ー野井坂宇和島経由の遍路道は最近はほとんど通行する人はいないようです。車で通るとその侘しさに圧倒されます。

 二百年前には多くの人が通ったであろう道筋が今ではどうにも評しようのない道となっているのです。実際に通行する人達の調査をするのも憚れるような道なのです。宇和島南の祝森(松尾トンネル付近)かしらには、最近にも新しい道路が建設されかかっています。先日久しぶりに通ってみましたが、道端の石造物が無くなっているのに驚きました。

 津島町野井入口にある「これより いなりへ五里」の丁石から、次「四里」は不明。不明と言うのは「確認されていない」ということですが、以前にあった(徳右衛門が設置した)可能性は十分に高いのです。では何故?


●津島町山財

●野井坂口





●上畑地小祝

●宇和島市道連橋

●光満

●(竜光寺)

稲荷へ六里

五里

四里?

三里?

稲荷へ(三里)

二里

一里二丁

四十一番稲荷山(寺号石)


 ●印は現認丁石です。四里は祝森柿木辺りにあったのではないでしょうか?今でも道路工事中ですが、工事の度に新道開通して便利にはなるのでしょうが、その一面失われて行くものがあります。つまらぬ過去は忘れ去るのが良いのでしょうが、歴史的善意の結晶たる標石ともなればどうでしょうか?



【寺号石となっている】特別な理由がある



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