徳右衛門丁石の話

 その21-2


 二、略地図の現物では道筋は赤色で表現されている。これは江戸時代からの常識。「アカミチ」と言った表現もみられたのである。

 左上の図の方に出してあるが太い道は「縣道」、細い方は「里道」である。縣道と言うのは明治時代になって新しく開かれ始めたもので、それまではヘンロミチは里道であったのである。所が道幅が狭くて山道となると馬車などが困るので峠の迂回路てきな平坦な新道が造られるのである。そうした所を茂兵衛は何度も何度も通り掛るわけで、その都度標石の必要性を考えさせられていたのである。

 茂兵衛自身は百度二百度と通いなれた道で何ら迷うことも無い。しかし新参者はつい立ち止まって思案することになる。まっすぐ峠道を登って行こうか?平坦な広い道を進もうか?時間的にはどちらが早いのか?などと躊躇することになる。そこで茂兵衛さんの登場と相成る次第。ここの際は近在の有力者に頼まず、直接に茂兵衛さんが役場に赴き交渉したのであろう。「亀岡村〇〇一一一号、大正二年一月二十九日」付けの文書が茂兵衛当てに出されたのである。連絡先の住所として、篤信者の坂(阪)井ウタ方当てになっていた。阪井ウタについて思いつくのは「九度目為供養」に施主となった茂兵衛標石が西条市小松町に立っていることである。

 兎にも角にも面白いのは「道知石」の用語である。これはミチシルベイシと読んだのではなかろうか。右側原色図の中央にその言葉「道知石建設地」が書き込んである。茂兵衛の字?であろうか。阪井女が書いたものであろうか?

 徳右衛門石の前に茂兵衛の道知石について述べておかねばならない。


 



その21-1 / 目次 / その21-3