その15 前回はおそらく徳右衛門建立最後の物と思われる「文化十一年十月吉日」窪川町青木(七子峠少し南)について述べたのであるが、その他の記年銘の石について表にまとめておこう。 阿波 1、文化四年二月 里浦四国講中 20 2、寛政十二年十月日 廣野村講中 3、寛政九年三月 富岡村講中 4、寛政十二年三月廿一日 新濱善蔵 土佐 1、文化九年八月吉辰 大津屋・代久屋・酒屋・近江屋 27 2、寛政九年三月廿一日 蔦屋松右衛門 3、寛政九年九月十八日 今井善三良 4、文化五年三月 横濱村・長濱村 5、享和三年五月 神田村講中 6、文化十一年十月吉日 和泉屋・熨斗屋・橋本屋・池田屋・平野屋 7、享和二年七月 當町念佛講 8、享和三年八月 新濱善蔵 9、享和三年八月 新濱善蔵 伊予 1、文化五年七月吉日 井上半兵衛清苗妻 66 2、寛政九年二月日 臼杵村幾右衛門・岩松 3、寛政九年二月日 二名村榮蔵 讃岐 1、寛政八年三月 下勝間村 14 2、寛政六年冬日 坂本伊右衛門 3、寛政十二年七月吉祥日 西片元村講中 ?、(寛政十二年六月 當村中) 4、享和元年八月 薦田桃四郎昌教 5、寛政六年 清水十蔵 わずか二十一基。現存確認数の六分の一と言ったところである。寛政六年1794~文化十一年1814の二十年間、標石設置の大事業であった。また小生の現認数127基、内訳は上記(旧国名下の数値)の如し。照蓮の「四国中千躰大師」は約70基。これは今少し増えそうであるが、なにせ剥離損滅が激しく調査確認が急務であるのだが…。 真念標石34基目については松川和生氏の貴重な探索日記を拙誌『四国辺路研究』第26号に掲載。 三角寺本堂前 |