七 「年に三回の遍路」説について−1 イギリスランカスター大学のイアン・リーダー教授の『MAKING PILGRIMAGES Meaningg and Practice in Shikoku』二〇〇五には「へんろ石」についても語られている。なかんずく武田徳右衛門については真念の後継者として次のように述べている(於七〇頁)。 Takeda Tokuemon, a resident of Shikoku who, during the late eighteenth and early nineteenth centuries, regularly went round the pilgrimage three times a year and who is known to have erected around seventy stones between 1794 and 1807, each bearing depictions of Daisi and information about distances to the next site... 問題なのは「three times a year」=「年に三回の遍路」と云う表現である。ここら辺り(つまり真念・武田徳右衛門・照蓮・中務茂兵衛など)については、Notesの「99」に注記してある。それは、Kiyoyosi 1999とMori Masayasu1986およびYoritomi and Shiragi2001を見よとあるのである。ところが小生はこれまでに「年に三回の遍路」は主張した記憶がない。どうも六に紹介した「四国中巡回記録」の内容解釈に問題があったのではと考えられる。とにかくここでは「年に三回遍路」説の発生と流伝について述べておくものである。 まずは、《はじめに》で紹介した、A『今治史談』富田文男・竜田宥雄一九七〇に。 ……徳右エ門も亦 幼なくして急逝した一男四女の冥福を祈ると共に、生き残った長女おらくの成長を願い、由緒ある武田家を断絶さす事なく、益々家門繁栄、子孫長久、如意円満の大願成就のため、お大師様のみあとを慕って、四国遍路の修行の旅に出発しました。
次にB『伊予路のへんろ道』村上節太郎一九七八、の後続編『愛媛の文化』二十二号村上節太郎一九八三では、 そして毎年三回お四国を順拝した。 となっている。 次にC〈四国霊場八十八ヶ所の町石建立と願主百姓徳右衛門〉渡辺達矩一九七九では次のように語っている。 この巡拝はいつからはじまり、幾度に及んだか筆者には知る由がないが…… とあって、ここでは「年に三回説」をとっていない。この人は寄進原簿に目をとおした人である。寄進原簿(仮題)については「表題のない町石樹立関係記録綴り」と称している。 次にD『今墾』第十四号、永井紀之一九七九では、 彼は一年に約三回、数年間にわたって巡礼を続けた。……その後、彼は巡礼道しるべ丁石(へんろ石)の建立事業に取りかかった。……こうして一国に三年ずつかけて、十二年間で建立事業は完成したのである。 とある。そして「約三回」と云う表現は正確を期してか、慎重に述べている。その後E『今墾』第十五号、永井紀之一九八〇ではC渡邊達矩の教示によって徳右衛門の日記と道標の寄付台帳の存在を知って研究の手がかりとしたようであるが、果たしてどれだけ台帳が読みこなせたのかは不明。この時には左のように述べている。徳右エ門は、毎年のように巡礼を続け、多い時には一年に三回にも及んだ。 これは自己で判断したものにしろ、AやCの記述に倣ったものであろうか。次にG『朝倉とその周辺の伝説と民話』朝倉村公民館一九八二、 徳右衛門は、五年の歳月をかけ三回の巡拝を終える。四国遍路の体験を通し彼の痛感したことは、道標のきわめて少ないということであった。寛政六年(一七九四)四月丁石の建立を発願し…… とある。何時から五年の歳月をかけたのかは不明である。三回の巡拝に五年を要したというのも典拠は不明。H村上節太郎一九八三についてはすでに前に述べた。 |