四 現認記録−8 C〔讃岐国十四基〕 9、八十四番屋島寺口。モデル図様であるが、大師像の所が少しまわりを彫って窪んでいる。製作時に大師像を陽刻(浮き彫り)するほどの石材がなかったということであろうか。寛政十二年。原簿記録は次の通り。 一 壱本 屋嶋寺方元村和吉郎 世話人大町村仙之助 実際の刻字には、向左面に「取次西片元村講中」とあり、正面に「ア △ 是より八栗寺一里 願主与州越智郡朝倉上村 徳右衛門」を刻み、さらに向右面に、「右 八くり道」。裏面には、「下り坂八丁 寛政十二年七月吉祥日」とある。饒舌というか、代舌に比して関係者の思いが強かったのか複雑な様相を帯びたものとなっている。 同年のものが八栗寺にも立っているが徳右衛門の関与については刻字からは確認できない。 寛政十二施主 (大師像)自是志度五十丁 申六月當村中 また原簿記録は、 一 壱本 燈栗寺む連村 甚平 とある。燈は焼の誤字。焼栗=八栗のことであろう。石の方には個人名を伏せているが、徳右衛門の関与を感じさせるものである。 10、志度寺。随分と長い間放置してある。一応モデル図形。少し膨らんでいるのは幅が広い(一尺)からであろう。 志度寺の丁石 享和元年 願主 豫州越智郡 酉八月朝倉上邑 徳右衛門 ア (大師像) 是より長尾寺へ一里半 施主 當町 薦田桃四郎昌教 原簿には、 一 壱本志度寺河内屋藤四郎 とある。「藤」四郎=「桃」四郎であろう。 |