承前 遍路の装束と荷物 次にめんつう。 これは「面桶」(一人前ずつ飯を盛って配る曲物)のことでしょう。簡単にいえば「茶碗」です。 笠。これも何種類かの形があったようですが、文化期の『海南四州紀行』によれば、「旅行ハ風ニアフテサントヨシ」とあります。 サントー、つまり三度笠というのは深目の笠で、貞享頃から盛んに使われだしたそうです。 カットの笠はどうでしょうか。 杖。現在では杉の木かしらの頭部を五輪に型どったものを使っていますが、カット図のは竹製のようです。 高群逸枝さんのは「金剛杖」で、山本蒼巖という人(この人は四国遍路の経験者)からいただいたものです。五輪(空風火水地)を象っていたようです。 金剛杖の発生については不明ですが、元々密教系の修行者が持ち歩いたものでしょう。一般には手軽な竹なども使用していたものと思われます。 安永三年(1774)の遍路さんの記録にも「金剛杖 壱本」という記載がありました。 文化期伊予の僧侶の場合―『海南四州紀行』によれば「小錫杖」を携行していますが、これは杖木の先端に取り付けて、歩く度にジャラジャラと鳴っていたものでしょうか。 脚半。布切れをまいたものでしょう。高群逸枝さんは「足袋」も使用しています。 足半。あしなか。これはいわゆる草鞋(草履わらうつ)とは違って、字の通り足の半分位の小さなものでカカトの部分はありません。 以上、真念さんの案内記(道指南)を中心に遍路の装束と荷物についてのべてきました。 ここで不審な点があります。それは「納経帳」についての記載が無いことです。真念さんは「納経帳」のことに触れておられません。そのかわりでしょうか、札うち(納め札)に関しては詳しく説明しておられます。 どうも性急の判断は禁物ですが、江戸時代初期(真念さんの活躍した頃)の遍路さんは「納経帳」を携行していたものかどうか疑問です。 後世に至り、納経帳を所持していないものはヘンロと見なされなかったようですが、初期(江戸)に於いては重要視されていなかったのでしょうか。 ★納札信仰から納経信仰への流れが遍路文化現象としても明らかに見られるところである。また最近話題の「白衣問題」も気になる。病気遍路の白衣使用と山岳修行者の白衣との混同めいたことが大きな流れとみられるが、今日のバス遍路たちの白衣にはまた別のメッセージというか、集団性への安易な依拠、浅薄めいたものが感じられる。 ―H18.04.14独行庵―
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