阿波柳水庵のこと 下
〜同行新聞 昭和61年12月11日 第302号〜


その1

 ○柳水初住
    
 真念さんの記述などからすれば、当時はまだ庵もなかったようです。一体何時頃からこの地に庵が構えられ、人が住むようになったのでしょうか。
 さいわいに初代庵住の塚(墓)が残っているので、ある程度の推測が可能です。

柳水初住

ア法師良清塚

安永八癸亥十一月廿一日


 安永八年(一七七九)に亡くなった良清法師が、ここ柳水(庵)に初めて住みついたということです。
 本堂が先にあって後庫裏が設けられたのか、または同時に構えられたのかも不明ですが、大雑把な数値として三十年前後は住みついて生活されたのでは無いでしょうか。
 本尊のどこかにでも当庵落慶の墨書が発見されれば何時の事か確定できます。今の所は推定するしかありませんが、もう一つ貴重な資料として古い位牌を見せていただきました。

 正面「日牌」としるしてあり、その下に戒名・死亡年月日があります。

明和七庚寅年

岳山壽白居士

十一月廿三日


 さらに下に刻んであるのはこの方の俗名ではないでしょうか。

前日亀屋

直兵衛


 どうも「前日」の意味する所がわかりません。裏にはまた次のように刻んであります。

安永三庚午年五月廿一日

赤銅瓦寄附之施主

徳嶋佐古町十一町目

亀屋直右衛門


 初住良清法師の亡くなる五年前に、徳島城下佐古町の亀屋さんが屋根瓦を寄附したので、そのお礼に良清法師が日々の供養の為にこしらえた「日牌」です。勿論その時は施主の直右衛門さんは生存しておられたので、父親(?)直兵衛さんの戒名を彫り込んであるのでしょう。
 明和七年(一七七〇)は安永三年より四年前のことです。

 ここでわかることは、屋根のフキカエが必要となったことから、建立された時期が逆算できることです。山中のワラブキ屋根であったとして、三十年の寿命と推定して良いのでは無いでしょうか。こう仮定すれば、柳水庵の建てられた時期は、大よそ延享時代(宝暦以前)乃至享保時代のことでは無かったでしょうか。
 いずれにしろ十一番より十二番への間にこうした庵が出来たことは、多くのヘンロさんにとって誠に有難い法の灯しびではなかったでしょうか。

 初住に次いで快翁という人は五年後に亡くなっておられます。

天明四甲辰三月廿七日

ア柳水二葉快翁塚

造立者有縁中


 柳水初住といい、また柳水二葉といい、仲々味のある表現です。



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