南天龍宮城(17) その前に1


【由縁】

 その前にチョット大事な話。
 那須政隆師の論文集だったかに「3 祖師伝」というのがあった。密教の学徒なら大概目を通していると思われるものであるが、(160頁)

龍猛菩薩伝
 龍猛菩薩、密教第三の祖師となりたまうことは、如来滅後第八百年に及びて、南天竺の鉄塔に入り、金剛薩より潅頂を受けて、真言密教を人間に流伝したまえる故なり。
 この鉄塔は、仏滅度の後、数百年の間、よく開く者なし。鉄扉、鉄鎖をもって封閉せり。その頃、天竺の仏法、漸く衰えたり。時に龍猛菩薩、大日如来の虚空に現じて、真言を説きたまうを見て、次第に写しおわりぬ。『毘廬遮那念誦法要』一巻、これなり。龍猛菩薩、すなわち、かの法要依りて、この塔を開かんことを願いて・・・時に龍猛菩薩、至心に懺悔し、大誓願を起して、塔の中に入ることを得たり。入り終わって、その塔ついで閉じぬ。また、多日を経て・・・諸仏・菩薩の指授を得て、記憶して忘れず、その内を観るに、すなわち、法界宮殿毘廬遮那現証卒塔婆、これなり。・・・・・塔内の燈の光明等、今に至るまで滅せずといえり。このことは『金剛頂経義訣』ならびに高祖の『付法伝』に見えたり。
 この鉄塔のことは、唐の中宗の頃、天竺の日照三蔵が中国に来たりて、華厳宗の祖師・賢首大師に告げ、賢首大師は口説を受けて、『探玄記』の中に記せり。しからば、その塔ありたることは正確な事実なり。ただし南天竺のいずれの国にあるかは詳らかならず。小徳の一説には、薩羅国にありという。これは、前に引ける『西域記』の説に依りて、阿育王の建てたる塔を鉄塔とする意ならん。されど、『義訣』ならびに『付法伝』にもその所在を記さざることゆえ、この説も正確とは言い難し。所在、既に明らかならざる程なれば、その今日にいたるまで存在するや否やは知るに由なし。なおまた、この塔につき、事相・教相にわたりて、重々の異説もあり、口伝もあれども、多くは観心門に属することなれば、今、史伝を記すにあたりてはこれを略するなり。



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街道の様子



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