龍神恋慕 7



 人の祖先は、言うまでも無く人である。それでも不思議なことに汎世界的に、ひとの祖先は、蛇 (龍)であるとの神話伝承の類が多い。他に、鳥類をそのその種族とみなしている人達も多少存在する。木の股から出生したり、桃から生まれた桃太郎などというのもある。

 それに比して、天理教の創造説などは随分と手の込んだもので、一方に神格名を述べると同時に、他方奇々怪々の動物がバッコしている。西遊記に登場する霊怪など足元にも及ばぬ。いわく、

 頭一つ尾一すじ大竜

 頭十二尾三筋の大蛇

 亀 しゃち うなぎ かれい ふぐ 黒蛇(くろぐつな) 人魚 白蛇

 以上の十種類のモノを、神様がアレコレとあやつって (食べて心味を試して)人間の創造をなされたと説く。元の意味する処を曲解して(食し損ねて)いる恐れもあるが、少なくとも聖書の人間創造説などよりは、複雑で面白くも感じられる。就中十種中四種が龍蛇であることは注目すべきことであろう。

 此の点から私は龍の始原形態は祖神の鬼であり、前者 (龍)は後者(鬼)の転格せるもので はないかと考へる。 …『龍神考』池田末利(カット省略。同行新聞第57号参照、国立国会図書館にあります。)

 この論者は、心霊学にいうーすなわち前回記した小桜姫物語に出てくるー龍神のことなど頭には無く、唯、古代中国における祖神の動物転格の一例としての龍神を論じているのである。それも、龍の字音を語源的に追求した、極めて学術的な結論である。わずか四頁足らずの本文に二頁半の註のついた小論であり、専門家や当の本人がどう評価しているのかはともかくも、龍は祖神の鬼=人間の祖霊である、という結論に注目したい。

 論者 (池田末利教授)は龍などという動物が実在した(している)などとは思って(信じて)はいない。単に古代人の幼稚な精神が創り出した、想像動物にすぎないと思っているのである。龍に限らず想像上の動物とされている、鳳・麟(キリンビールのラベルに描かれている動物)も、龍と同様古代中国において、それぞれの字音が互いに転音関係にあり、結局これらは皆祖霊である鬼神の転格せるものと考えている。

 では鬼神とは一体何物なのだろうか?と追求したくなる所だが、なにせこうした論文 (鬼字考もある)は、古代中国の字の形や音韻関係など、筆者らが如き生半可な知識で手の届くものではない。とにもかくにも、中途の証明方法がどうであれ、結論としての

 龍は人の祖霊である

 ということは、前回引用する処の浅野説、

 人間は龍神の子孫

 と一致するのである。

 因みに浅野氏は英語の教師で明治大正の人。龍神考の論者は昭和の中国哲学の先生である。<己と共に>ということは以上によって、祖霊としての龍を語ったものとしておこう。次の<月に立つ>という同行としての側面を考えてみなければならないが、さして並べる程の資料も無いが…

 月は竹取物語で有名な、カグヤ姫の本所・住所である。この地上 (人間界)は、姫にとっては、月(天上界)で犯した罪のつぐない所、つまり一種の刑務所であった。この我が身に当てはめて考えるならば、我々は罪を背負った罪人に他ならない。そうしてこの地上において、三角や四角張った人間同志が、己が住む地球に倣って、丸い人格を形成する為の行をしているのかも知れない。この行を共に歩み推進する龍神達と祖霊と子孫一丸となって、何処かへと進み行くのかも知れぬ。この太陽系の地球にあって、ウララウララとのびやかな日々を過ごしているのであろうか。

 琴持輪足



龍神恋慕 トップ