龍神恋慕 6



 前回記した老僧の言は、単純明解に龍というものを示唆していおるように思われる。《己と共に》ということは、言葉を付け加えて考えるならば、《己と共に生きてあるもの》といった処か。

 「ある」という言葉は、万物の存在に関わって余りにも哲学的思索を要するコトバである。今此の文章を読んでいるあなたと、書き手の私との我(われ)の立場により、この「ある」は幾様にも変幻極まりない姿を造る。

 つまり、龍境不可思議と言う「不可思議」も、龍神無限と言う「無限」も、共に「ある=存在」の形容であり内容である…などと、ひとむかしまえにはこんなことを四六時中考えたりしては喫茶店にトグロを巻いていたのであるが、それにひきかえ、学者(教授)と言う人達は、実に丹念に、つまることやらつまらぬことやら彼れ此れ相取り混ぜて仮説をたてるものである。

 そうした数ある仮説憶説の内、自分好みの都合良いものを書き並べているのが、恋しくも慕わしく切ない情と言うものである。或いは情を吹き飛ばし突き抜ける程の信念を有しているのだろうか。信念と言うよりも、天来具有の性分であろうか。

 何れにしろ、私と共にこの世に立つものが存在することは、同行二人のお大師様のことを思い起こせば良かろう。この偉大なる同行者=弘法大師様に、津々浦々の人々が常時「南無大師遍照金剛」「ナムダイシヘンジョウコンゴウ」と、瞬時の間でも一緒に在りたい(つまり同行者・道連れ)ものと宝号を唱えているのである。

 個々人の信念感性などにもよるが、不可視の大師と共に、少しばかりのトキを過ごしているのである。ところが一寸考えてみるならば、『娘一人に婿八人』ではないか。いくら遍く照らすお大師様でも…と怪しげな気は起こすまいか。

 とに角人間は龍神の子孫、汝とても元へさかのぼれば、矢張りさる尊い龍神様の御末えいなのじゃ

 ここに引用したのは、浅野和三郎著のいわゆる霊界通信として有名な『小桜姫物語』の一文である。約四百五十年前三浦城主の奥方であった人の霊=小桜姫、が通信者(発信者)で、某女(霊媒)が受信者、そしてそれを筆録したのが浅野和三郎という人なのである。

 大正12年の初版発行で、当時はこうした霊現象が相当に激しく現今のUFOにも比すべきか或いはそれ以上の影響を人心に与えていたのである。それも英国などの心霊研究に先を越されていた感がする中で、この龍神の如く外国には見られぬ特殊な研究(発表)が日本でされているのは興味深いところである。西洋ではエンゼルやフェアリイに関しての研究が著しい。

 ともかくも、人間は龍神の子孫であるということは面白い事ではある。然しこれも人間は神の子であるというのと同じようで、又違ったニュアンスの何物かを表現しているようでもある。それは後者が人間の精神的な側面における神性(心の尊厳性)を述べているのに比し、龍神といえばやはり神様の一種(一表現態か?)なのだろうが、想像的にもしろ、心と違ってある一定の姿が具体的に感じられるからであろうか。

 引用文中、尊い龍神さまとあるからには、卑しき、悪しき龍神も存在するのであろう。それらの龍神たちが西洋の方へ出掛けて行って(追いやられて)悪しき龍としての汚名を聖書中などに名残りをとどめたものか。

 さて、人間の祖先は人間であることは余りにも明白なことであるが、然し不思議なもので龍神に限らず、鶴から(勿論これは人間に化生してから)生まれた子の話も堂々と童話の世界には通用している。蛇の子(神様が蛇体であった)の話も神話中にみられる。これは単なる人間のファンタジックな精神の所産なのであろうか。 新居浜市琴持輪足



龍神恋慕 トップ