旧稿・吉野川無銭渡し/光明庵 ~同行新聞 昭和59年11月11日 第234号より~

 最近の案内書はともかくとして、小生が使った本には、十番切幡寺から十一番藤井寺への間・吉野川の所に《渡し舟》と記載してあります。
 昭和四十九年の五月二十一日この地点を通過しましたが、残念なことに楽しみにしていた渡し舟はありませんでした。
 当時の聴き取りでは、昭和三十五年頃に廃止と記入しています。
 またもう一ヶ所、四、五年前に廃止とも記入しています。
 同行新聞226・227号で、徳島県鴨島町の坂東章氏がこの舟渡しの件について詳しく述べておられます。
 架橋事業の進んだ現在では想像できかねますが、昔(明治以前)における交通上の難所は、峠越えと、河川を渡る難しさにあったようです。

 (鶴林寺~太龍寺)
 …日、晴天ニ成タレバ寺ヲ出、直ニ坂ヲ下テ川原ニ出。此川ハ大河ナレドモ舟モ無ク渡守ナシ。上下スル舟人ニ向テ手ヲ合、ヒザヲ屈シテ二時斗敬礼シテ舟ヲ渡シテ得サセタリ…―四国遍路日記―

 一六五三年、澄禅さんの記録です。この川は、那賀川で、小生が通った時には立派な橋がかかっていました。
 この澄禅さんの遍路より三十数年後の、真念さんの「四国遍路道指南」には《なか川わたし》とあります。
 これによっても、澄禅さんから真念さんにかけての時代に、舟わたしを必要とする程《遍路の増加》が起っていたことがわかります。

 寛政十二年(一八〇〇)の四国遍礼名所図会によれば、

那賀川 船渡し十五文宛

とあります。また先程の十番から十一番にかけては、

吉野川 船渡し三文宛祓川 船渡し弐もん宛

とあります。

 227号坂東氏の記載(八幡町誌)では、「文化五年四月五日粟島渡船を無(銭)賃にした」ということです。
 しかし那賀川の十五文は「吉野川」にくらべて高すぎますが、これも利用者の人数に関係していつのでしょうか。
 これは多分那賀川の方が流れが急だからでしょう。
 この那賀川も文政期(二年頃)には善根渡しとなっていたようです。

 …長川ニ着ス此川船渡大井村中善ニ渡す前には賃渡ニ御坐候所只今善船すると申ス川船太トシ渡りて休足して咄ヲ聞ハ昔賃渡ノ時ハ此村困窮なりしが此頃辺路ヲ善ごんニ渡し候而ハ如此村も豊ニ相成白カベノ土蔵も出来候…

 この引用によれば、善根に渡すから村が栄え豊になったということです。
 澄善さんの時代からすれば隔世の感がありますが、善根宿に限らず、善根渡しに何らかの大師のお蔭ということはあった事と思われます。

 同じく吉野川の渡しについては、次のごとく記してあります。

 四月五日ニ出足渡場へ参吉野川ヲ渉る善根渡し也川向ニ大師ノ尊像有りて札打て御礼申ス事なり


 川向に大師の尊像とあるのが、227号に紹介された、「廃光明庵」の本尊です。
 文化五年に渡しを無銭に(善根渡しに)したということで、文政二年の先程引用の記録にも《善根渡し》とあります。
 文化五年より八年前(寛政十二・一八〇〇年)の記録では吉野川で三文の船賃がいりました。



 次に文政十(一八二七)年の納経帳をみてみましょう。
 これは宅万村の亀五郎という人が代参したものです。
 『奉納経四国八十八ヶ所同行二人』とあります。
 20cm×17cmのものです。番外札所共で98ヶ所を廻っておられますが、頁の中央部の破損がひどく判明し難い部分もあります。

 奉納経
本尊弘法大師
三月十七日 光明庵

 三月十七日というのは書き込んだものです。


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